最近、寅さんマラソンと同時並行して、「松岡正剛の千夜千冊」マラソンを始めています。

一日1本ずつ、2000年からずっと更新されていた松岡正剛のブログを読んでいます。

このアラビアンナイトみたいな所業が、なんだかすごく楽しいです。

そして、このブログを読んでいて驚くのは、2000年頃のブログ文化は、ちょっと恐ろしいほどだなあと。

治安とか炎上の話じゃないです。その文章の密度が、驚くほど濃ゆい。このクオリティの記事がブログでタダで読めるなんて…と素直に感動してしまいます。

当時から、自分も見てきたはずなのに、今振り返るとこんな時代のインターネットもあったんだなあと強く思わされるほど。

そりゃあ、懐かしき名著『ウェブ進化論』や『ブログ論壇の登場』のように、もっとポジティブにインターネットが語られていた時代もあっただろうなあと感じます。

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で、先日、千夜千冊の17夜を読んだときにも、まさにそれを強く感じました。

https://1000ya.isis.ne.jp/0017.html 

この時に紹介されていた本は、堀田善衛の『定家明月記私抄』。

この記事の中で、みんな大好き藤原定家のあの有名な歌、

「見渡せば花も紅葉もなかりけり    浦のとま屋の秋の夕暮れ」


この解説が非常にわかりやすく書かれてありました。

詳しくはぜひ直接記事を読んでみて欲しいのですが、特に、最後の一段落がとてつもなく素晴らしい話だなと思ったんですよね。

しばらく、壁に貼っておきたいぐらいの話でした。少し本ブログから引用してみます。

    われわれはいったい、この現実の世に何が「ない」と思っているのか。そこを問うべきである。たとえば侘茶というものは、本来ならそこに唐物の道具や咲き乱れる萩がほしかったのに、いまはそれらがないことを侘び、手元にある一碗の飯茶碗と、一輪挿しの桔梗でなんとかお茶を点てるにすぎないのだということを表明した。そのときに「ない」から「なる」への創発がおこる。定家の歌も侘茶も、そうしたものだった。


これ、本当に素晴らしい文章だなと思いました。

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「あなたは、この世界に何が“ない”と感じているのか?」
そして、その“ない”は、単なる欠損なのか?それとも、何かが立ち上がる起点なのか?

この問いを持つ姿勢そのものが、大事なんだろうなと本当にハッとしたんです。

で、この感覚が先ほどもご紹介した藤原定家の歌で解説されると、非常にわかりやすい。

広く一般的に語られている話なので、知っているひとも多いとは思いつつ、改めて解説をしてみると、あの歌はまず、花と紅葉という“秋の主役”を提示する。

ところが次の瞬間、それらを「なかりけり」で消してしまう。

その瞬間、目の前の景色は一気に貧しくなるわけです。しかし同時に、そうすることで「何か」が起動するわけですよね。

花も紅葉もない。
だからこそ、夕暮れの気配がよりグッと色濃くなる。そして、苫屋の輪郭が濃くなる。

“ない”は空白じゃなくて、そういう景色を見る力を起動する装置みたいにになるわけです。そしてそこに見事に「もののあはれ」が立ちあらわれる。

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で、侘茶の説明も同じ。というか、利休たちはこの藤原定家の歌の構造を完全に見習ったという話なんです。

茶会を開くなら、本来なら当時の高級品だった唐物の道具や、咲き乱れる萩がほしかった。

でも、今それがない。

ただ、そうやって「ない」ことを認めた上で、手元の飯茶碗と桔梗でお茶を立てる。
そのときに「ない」から「なる」が起きる。

それが、茶道という道につながったという話です。

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つまり、順序としては、まず「心の目で見渡す」こと。

すると「あるもの」だけじゃなく「ないもの」も同時に、見えてくる。

で、“自分は何がないと思っているのか”を問え、と松岡正剛は教えてくれているわけです。

そして、ここが凄いのは、「ない」を不足や諦めに回収しないところで、むしろその時に「ない」から「なる」への創発が起きる、と言い切ってくれているところ。

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で、ここまで来て、僕はふと気づいたんですよね。
いま自分が心から「あって欲しい」のに、「ない」と感じているもの。

それがたぶん、冒頭で語ったようなインターネットの姿、インターネット上の信用や信頼なんだろうなあと。

ゼロ年代から、10年代前半ぐらいまでのインターネット文化そのもの。
あの頃の文章とか、手触りとか、信頼の流れ方とか。

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で、ここから一気に俗っぽい話になってしまいますが、最近よく思うのは、AIの画像生成と文章生成で、もう完全に底が抜けたなと思います。

嘘が増えたのではなく、嘘は昔からありました。ただ、今回のAIによる圧倒的な質の違いは、「信用を補強するための柱」が、まとめてカンタンに偽造可能になったことだと思っています。

写真や動画、スクショや丁寧な文章、そして肩書や推薦文など、実績っぽい数字なんかもすべてAIでカンタンに偽装できるようになった。

いわばインターネット上の「信用の添え状」みたいなものが、全部、ひとを騙すための素材にガラッと転換して、逆手に取られてしまっている状況だということです。

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文章が丁寧だと「ちゃんとしてる」と思った。でも、そのすべてが「騙しやすさ」の記号に反転してしまった。

そして最悪なのは、そうやってAIによって偽造されたものに群がる人たちのアテンション自体はすべて「本物」なわけですよね。

そして、僕らは、水戸黄門の印籠みたいに、そうやって信頼できるものが提示された瞬間に、有無を言わさずひれ伏す癖がついてしまっている。

それは信用に値する、というふうに、です。

そんな状況に、勝てる訳がない。こちらは生身の人間であって、経験則ではどうしようもできないのだから。経験則こそハックされているのが、まさに今です。

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つまり、AIの技術は、詐欺師が「ない」と思っていたものを、ことごとく「ある」という状態にしてしまったわけです。

あと、最近ずっと主張しているのは、AIはプラスチックのようなものだと思っていて。

コンビニのプラ製スプーンみたいなもの。タダ同然で配ることができる強さ。

そして、それゆえに遍く世界中に広がることも間違いない。その時に、プラ製スプーンがモノとして美しいかどうかはまったく関係がない。

お茶会の席でも、たとえば本来ここにスプーンがあればいいと思ったら、プラスチックのスプーンをカンタンにつくってしまえる。つまり、専用の道具をいくらでもつくることができてしまう。

で、パッと見わからないわけです。

だから「あー、これは信頼に値するものなんだ」と思ってしまう。でもそれこそが、ありとあらゆる詐欺を生んでしまう温床となっているといことです。

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で、繰り返しますが、そこでだまされて集まってしまう人々のアテンションだけは、本物。

自分で判断せず、その周囲に群がる人たちの数などで反応している状況をみて判断するひとたち、それでこそ正誤が決まると思っているひとたちには、結果として、その偽物こそが”本物”になる。

僕らは「信用を補強する添え状」を整えすぎてしまった。つまり、いつの間にかその形式にあぐらをかいていたんだと思うんですよね。

そしてその整い方が、そのままAIによって詐欺のインフラに転用されたのがまさに今。

当然、ここから新しい信用の証(マナーやトンマナのような空気)をつくってみても、またそれをAIがカンタンに生成してしまう。

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だから、もう性善説にはもう戻らないんだろうなと思います。

でも、性悪説に落ちてしまって、誰も信じられなくなったら、人は孤独になる。

だから、まずは、問い自体を変えるしかないんだろうなと。

善人か悪人かを見抜くんじゃない。たとえ、悪人でも機能しない仕組みにするしかない。

そして、結果として、SNSの中で完結させないというわかりやすい結論が導かれる。

つまり、全部がリアルに回帰する運命にある。

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実際に会ったことがある、共に時間を過ごした、小さな約束を何度も守ったというような、AIではカンタンには偽造できないような共同体の中で振る舞いの信用を担保に使うしかない。

こう考えてくると、ローカルやリアルのミュニティに振ったほうが合理的という話にもなるわけです。

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ただ、それが正解だとわかっていても、僕はインターネット上で出会った人たちを、「誰も信じるな」とは言いたくない。

オンラインコミュニティを運営していると、なおさら強くそう思います。

せっかくこんなにも可能性に満ちているもの、素晴らしい出会いや誤配を運んでくれるはずだったものが、詐欺だけに使われる虚しさです。

インターネットを離れればいいのか。決してそうじゃない、と言いたい。そのなかで、どうやって橋をかけるのか。いつも語る「裏の裏」のスタンスを取りたいなとここでも思う。

そして、僕自身、インターネットに育ててもらったようなものだから。このバーチャルの土地に恩もある。だから、どうにかしたいと、本当に強く思います。

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さて、ここまで語ってようやく、最初の問いに戻ることができる。

「僕は一体、この現実の世に何が『ない』と思っているのか」

で、今の僕の答えはインターネット上に「信用がない」です。

でも、この「ない」は終わりじゃない。もちろん、もう以前のような性善説にも戻らない。

過去の姿を再現することではなくて、この「不信の時代」に、あえて「ない」から出発する新しい信用の作法が必要だと思うのです。

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花も紅葉もない。
だからこそ、夕暮れが濃くなるのと同様に、

インターネット上の信用がことごとく破壊されて、存在しない。
だからこそ、信用の本体が見えてくるタイミングでもあると思うのです。

そして、「信用がない」から、信用は“なる”に変わり得るタイミングでもあるじゃないかと思ったわけです。

侘び茶がそうだったように、です。

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昔のインターネットの理想論のように、世界がフラットに繋がるというような、豪勢なつながりじゃないかもしれない。あって欲しかった世界も何もない。

でもそうやって、「ない」ものを通じて、その侘しさや寂しさを感じながら、「なる」感覚を味わえる場所にしていきたい。

Wasei Salonも、そんな侘び茶における茶室のような空間になれるのかもしれないなと思いましたし、そういう場にしていきたいなあと強く思いました。

そのほうが結果的に、そこで育まれるつながりから得られる豊かさは、より濃く「なる」ように思うからです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。