僕らは「敬意とは付加価値のことである」と思っています。

たしかに何かしらの機能を持つものに対して、「敬意」が付与されるから、それが「高級品」になったり「ブランド」になったりするわけですから、そう考えるのも当然です。

でも本来、敬意の本質とは「無駄」なのだと思います。

例えば、脱帽という行為は、帽子を脱ぐという全く無意味な行動だからこそ、相手を敬っているという意味が込められ、さらに相手にもそのように受け取ってもらえるから、敬意となり得る。

他にも、デパ地下の高級なお菓子の包装紙は十二単のように何重にも包まれているからこそ、相手にその敬意が伝わり、それが重要な贈り物だと相手に理解してもらえる。

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つまり敬意をあらわそうとはする行為は、機能とは全く無関係な部分に表象され、なんだったらその機能の一部が失われることさえある。

しかしそうやって、機能さえも蔑ろにして相手にうやうやしく接することを優先させるからこそ、そこに明確に「敬意が存在している」とメッセージとして伝わるわけですよね。

もし仮に、その敬意が機能を拡張するものだったら、「これは私からあなたへの敬意ですよ」というメッセージが相手に届かないかもしれない。

だからこそ、敬意とは徹頭徹尾、機能とは全く無関係のところにある「無駄」でなければならない。

この辺りのお話は『世界は「贈与」でできている』で詳しく書かれているので、ぜひ合わせて読んでみてください。





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こう考えてくると、敬意が暴走してしまう理由もよくわかります。

ここで言う暴走とはつまり、形式的になってしまったり、相手に全く求められていない部分に対して、無意味に敬意を込めたりしてしまうことです。

例えば、自分は昨年から無拠点生活を始めていて、日本のさまざまなホテルに泊まってきたのですが、

それぞれのホテルごとに敬意の表し方が少しずつ異なります。

しかし、共通する敬意の込め方は、チェックインの手続きが長くなる傾向にあることです。

「丁寧にお出迎えしていますよ」という意思表示ゆえなのでしょう。

ただし、ホテルの宿泊機能自体はさほど変わらない。どこにいっても似たような機能を備えた空間が広がっています。

このように、相手が本来求めるところとは別の方向へと敬意は進化してしまう可能性を秘めているわけです。

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だから「相手の求めている敬意を正しく見定めて、提供しましょう!」ということで話が終えられたらラクなのですが、

現代の特殊性は、その敬意の感じ方が人それぞれ異なってしまい、多様化してしまっているところだと思います。

上述したホテルのチェックインの例だと、よりうやうやしく対応されることが嬉しいひともいれば、

より簡素に対応してもらえたほうが時間が節約できて嬉しいひともいる。

ここに、現代の特殊性や難しさが存在していると僕は思います。

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つまり、敬意を表明することの目的である「相手に豊かさを感じてもらう」が、それぞれに受け取る人間によってバラバラになってしまった。

サービスに限らず「ブランド」と名が付くものは全て同じ宿命を背負っています。

だからこそ僕らは、自分が相手に敬意をあらわす立場の場合には、

「この本質的には無駄である敬意が、今この場に本当に求められているのだろうか」をその都度ド真剣に考えなければいけないですし、

自分が敬意の提供を受ける立場の場合には、

「この機能に付帯されている本質的には無駄である敬意が、自分にとって本当に豊かさを与えてくれるだろうか」を、その都度ド真剣に考えなければならない。

さもなければ、全く無価値なものに、自分のお金と時間を浪費させられることになるからです。

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この両方の視点から自分の行動を見直すことが、いまとても大事だよなあと思います。

もう昔のように敬意から得られる「豊かさ」の基準が、万人に共通のものではないのだから。

ただし、だからこそ、この「豊かさ」の基準が多様化すればするほど、社会に次々と分断が生まれてくるのも当然だよなあとも思います。

だってそれは、相手にとっては心底「無駄な行為」であり、良かれと思って行っていることが、無駄以上に不快なものにもなる可能性も秘めているのだから。

今世界中で起きている分断は、まさにここに端を発していると僕は思います。

ここでその話を書くと、長くなってしまうので、この話はまた別の機会に。

今日のお話が、いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても何かしらの参考となったら幸いです。

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