さて、今日は昨日の続きです。



前回のブログの最後に、「豊かさの基準が多様化すればするほど、社会に次々と分断が生まれてくる」と書きました。

その理由について、今日は自分なりの考えを書いてみようと思います。

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そもそも、なぜ僕らは「本質的には無駄である敬意」を相手から敬われている行動だと感じられるのでしょうか。

僕らが「何を敬意として捉えるているのか」が問題となります。

この点、僕らは「歴史を共有すること」でその敬意の意味を共有してきたのだと思います。

具体的には、儀式や文化、儀礼的な民族の風習などを通じて、敬意の基準を標準化してきた。

先祖代々からその風習を受け継いで、そのように教わって育ってきたからこそ、本質的には無駄である敬意を、豊かさだと思えるようになったわけです。

決して、生まれた瞬間から自然と身につけていた観念ではない。

知らず知らずのうちに親や社会からその観念を植え付けられてきたわけですよね。

その証拠に、まったく違う民族の敬意の示し方が、自分たち(日本人)にとってはなんの価値も持たないことは往々にしてあるわけです(逆に不快でさえあることもある)。

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つまり、なぜ人類が歴史を共有するのか?というひとつの答えがここにある。

他者への敬意を共通化するためです。

「俺たちにとって、『豊かさ』とはコレだよな」と、全くもって本質的には無駄なものを「豊かさ」として共有し、その基準を暗黙知として定めてきた。

そのために、建国の歴史まで遡り、古くは古事記や日本書紀のような歴史(ある種のフィクション)を共有することで、その基準を共通認識化してきたわけです。

だからこそ、社会がうまく回ってきたのだと思います。

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逆に言えば、この共通する歴史観が失われたときに、人々は驚くほど簡単に分断していく。

今のアメリカなんかは、まさにそのような分断の狭間にいるように僕には見えます。

他にも、SDGsという世界基準の新たな豊かさの定義は、「多様性や地球に対しての敬意を、新たな豊かさの基準にしよう!」という大号令でもあると言える。

つまり、価値ある無駄(民族ごとの敬意)の基準を世界標準で一斉に変えてしまおうとしている試みでもあるわけです。

だからこそ、そこに分断が生じてしまうのだろうなあと。

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「なぜわかりやすい17の目標を設けて世界にとって良いことしようとしているのに、分断が起こるの…?」と思っている方も多いと思うのですが、

地球にとって害悪になりかねない「無駄」をなくし、世界の「多様性」を認める方向に舵を切ろうとするからこそ、分断が起こるのです。

それは、これまでの敬意のあり方(方向性)をガラッと変えてしまうことになるから。

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この方向に世界が一斉に舵を切ることで、更なる荒波が襲ってくるのかもしれないし、思いのほかスムーズに進行していくかもしれない。それは誰にもわかりません。

でも少なくとも今の「分断」の現状は、僕にはそのように見えます。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。

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