昨日、松井秀喜さんが巨人の監督に就任するというニュースが、本当に大きな話題になっていました。

その盛り上がりを眺めながら、僕がまず思い出したのは、以前Xにつぶやいた「レジェンドリーグ」の話。

スポーツ業界にも、レジェンドリーグみたいなものがあってもいいのになあ、と。

今のスポーツは、人間の極限を目指す真剣勝負であると同時に、推し活的なエンタメとしての側面もかなり強くなってきています。

だとすれば、選手が40代、50代になっても、かつて夢中で応援していたひとがプレーする姿を観たいファンは、きっと多いはずなんですよね。

全盛期と同じようには動けなくても、そのひとがコートやグラウンドに立っていること自体に、ちゃんと意味や価値がある。

僕だったら、田臥勇太がいつまでもバスケしている姿は、見に行きたい。

音楽アーティストのディナーショーのように、ファンと一緒に年齢を重ねてきたからこそ成立する時間が、スポーツにもあっていいと思うんです。

ーーー

で、今回の松井さんのニュースを見ながら、改めてそんなことを考えていたのですが、同時にもうひとつ気づいたことがありました。

それは、結局みんな「バトン」がつながるところを観たいんだろうなあ、ということです。

では、僕らは一体何に、こんなにも心を動かされているのでしょうか。

この点、今回の長嶋→松井の流れを見ていて、僕はもう、映画『国宝』そのまんまだなあと思ってしまいました。

師から弟子へと、何かが手渡されていく。そのひとがずっと担ってきたものを、次のひとが引き受ける。まさに「襲名」です。

師から受け取ってきたものや、その背中を見ながら育ってきた時間が、今度は次の世代に向かって開かれていく。

それを見届けること自体が、こんなにも大きなエンタメになるんだなあと。

日本人にとっては、この襲名というバトンリレーこそが、いちばんのエンタメであり、その本質なんだろうなあと。

ーーー

ただ、このとき手渡されているのは、たぶん選手や指導者の側にあるものだけじゃないはずです。

観客もまた、そのひとたちから本当にたくさんのものを受け取ってきている。

それは憧れだったり、明日もがんばろうと思える気持ちだったりするし、その選手を夢中で応援していた頃の自分の暮らしや、一緒にテレビの前で試合を観ていた誰かとの記憶だったりもするわけで。

僕らは、そういうものまで全部ひっくるめて、そのひとを観ているわけですよね。

だからこそ、かつて育てられたひとが、今度は育てる側にまわるとき、観客にとっても、自分が大切にしてきた時間がそのまま未来へとつながっていくように感じられるのだと思います。

つまり、僕らは、その選手のこれからを応援しながら、同時に、自分が見届けてきた物語の続き自体も、応援しているのかもしれません。

ーーー

そして、このことはAI時代において、ますます大きな意味を持ってくると思っています。

AIがどれだけ感動的な物語や映像をつくれるようになったとしても、「若い頃、自分はこの選手を夢中で応援していた」という自分自身の過去までは、あとからつくることができないわけですから。

そのひとが年齢を重ねているあいだに、観ている僕らもまた、それぞれの人生を生きてきた。その時間を経たうえで、また目の前にそのひとが現れるわけです。

そこには、コンテンツの出来栄えだけでは決して測れないものがある。

さらに、ここからもう一歩踏み込んで考えてみると、この感動の奥には、人間の「死」の存在もあるような気がするんです。

ーーー

どれだけ偉大なひとであっても、いつまでも同じ場所に立ち続けることはできません。

いつか、そのひとはいなくなる。そして、その姿を見届けている僕らも、いつかは必ずいなくなる。

だからこそ、その限りある時間のなかで何かが手渡されることに、どうしようもなく心を動かされてしまうのではないでしょうか。

もちろん、科学技術がこのまま進歩していけば、ひとりの人間が何百年も生きられるようになるのかもしれない。

あるいは、そのひとの言葉や振る舞いを再現する「クローンAI」が、本人の死後も語り続けてくれるような未来だって、十分に想像できます。

そして今莫大なお金と、人間の欲望が、そちらに向けられつつある。

でも、今僕が考えている感動は、そのひとがずっと存在し続けてくれることとは、どこか違うところにあるんですよね。

同じひとがずっと続いていくわけではないから、失われてしまうものもあるし、逆に新しく生まれてくるものもある。

その寂しさ(寂寞感)と、未来への承継が同時にこみ上げてくる瞬間に、僕らはどうしようもなほどに胸を打たれるのだと思います。

F太さんが、このオーディオブックカフェの最新回の中で語ってくれた話とも、見事につながる。

https://x.com/audiobookcafe33/status/2113471911288254895?s=20

ーーー

そのひとがいなくなってしまうことと、そのひとが生きてきたことの意味まで終わってしまうことは、きっと別の話なのでしょうね。

これはもう、理屈で理解するよりも先に、身体の奥のほうが勝手に反応してしまうようなレベル。

人類が何万年ものあいだ繰り返してきた、世代から世代への受け渡し、その長い長い連なりの先に、今の自分もいるわけですから。

だからこそ、その姿を目の前にすると、遺伝子に刻まれているんじゃないかと思うぐらい、深いところから突き動かされてしまう。

そのつながりを、自分の目で確かめられること。そこに、人間にとっての大きな救いがあるように、僕には思えてなりません。

ーーー

ここまで考えてくると、じゃあ僕らがつくるべきものは一体何なのかも、少しずつ見えてくるなあと。

それはきっと、このバトンリレーが続いていくための「器」なのだと思います。

振り返ってみれば、天皇制や式年遷宮、あるいは芸能の世界における襲名など、日本で長く続いてきた営みには、この受け渡しの構造が何度も繰り返し現れてきます。

その器があるからこそ、受け渡しに参加するひとも、それを見届けるひとも、また自然と集まってくる。

日本人がずっとやってきたことって、結局はこれに尽きるんじゃないかなあと思うんです。まさに霊的成長、つなげておいたから、です。

ーーー

ただ、長嶋から松井へ、という話だけをしていると、それは特別なひとにしか担えないことのように感じられてしまうかもしれません。

でも、僕がつくりたいのは、もっと多くのひとが、それぞれ自分なりに手を添えられる器のほうです。

そのときに僕がいつも思い浮かべるのが、運動会の「大玉転がし」のイメージ。

この話は、以前にもブログに書いたことがありました。

参照:利己的にも利他的にもならないコミュニティは、どうやってつく... 

自分がどれだけ得をするのか。あるいは、目の前の仲間のために、どれだけ尽くせるのか。共同体のあり方をこのふたつだけで考えていると、どうしても、今ここにいるひと同士の利益や負担の話に終始してしまいがちです。

でも、そこに「次に受け取るひと」がいるという時間軸が入ってくると、今の自分たちがやるべきことも、少し違って見えてくるはずです。

過去から送られてきた大玉を、みんなで受け取って、次のひとたちへと送っていく。

そういう共同作業のなかにこそ、ひとが自然と力を合わせられる可能性があるんじゃないか。僕はずっと、そんなふうに考えています。

ーーー

しかも、その大玉は、今ここで僕らがゼロからつくり出すものとも限らないんですよね。

むしろ、すでに自分たちのところまで届いているものに気づくことから、すべては始まるのだと思います。

ここで思い出すのが、建築設計士の黒木さんが語ってくれた「自分は最後の設計士じゃない」という言葉です。

以前、IKEUCHI ORGANICの阿部さんと益田さん、そして黒木さんと「みんなのブランドになるためには?」というテーマで対話会をしたときのお話でした。

黒木さんの古民家再生は、ピカピカの新品に上書きするのではなく、長い時間そこに残されてきた魅力をみんなで磨き出して、次の世代がまた手を加えやすい形で渡していくというお仕事です。

「自分の仕事で、すべてを完成させる必要はない。自分のあとにも、この場所に関わるひとが必ずいる。」

この言葉を今回の話と重ねてみると、改めて深く響いてくるものがあります。

ーーー

器をつくるというと、僕らはついつい、自分が壮大な物語の「始まり」になろうとしてしまいがちです。

でも本当は、器をつくるひと自身もまた、長い受け渡しの途中にいるわけです。

自分が好きになったものも、自分を育ててくれた場所も、どこかの誰かが手をかけて、ここまで残して渡してくれたからこそ、今ここにある。

そのことにふと気づいたとき、「自分は、こんなにも受け取ってしまっていたのか」と思わされて、すると今度は、自分も少しだけ磨いて、次の誰かへ渡したくなってくるんです。

ーーー

もちろん、受け取ったんだからお前も継がなければならない、という話がしたいわけではありません。

以前の記事内で「主体的な宿命性」と書いたのも、まさにそういうことでした。決して、身分の固定化の話ではない。

誰かに役割を決められるのではなく、受け取ってきたものに気づいた自分自身が、「この続きを、少しだけ担ってみたい」と自然に思えること。

そして、その気持ちが芽生えたときに、ちゃんと手を添えられる場所があること。

僕がWasei Salonというコミュニティを通してつくりたいのも、きっとこういう「器」的役割なんだと思います。

バトンリレーを観て、ただ感動して終わるだけじゃなく、自分自身もまた何かを受け取りながら生きているんだと、それぞれに気づけるような場所。

そして、まだ出会ってもいない誰かへ向けて、その続きを少しずつ贈っていけるような場所です。その各人の内的発見と、思わぬ出会いを創造したい。

ーーー

自分が生きているあいだに、何か立派なものを完成させるのは、もちろんそれもひとつの願いではあるけれど、今の僕は、自分がいなくなったあとにも、誰かが手を添えられるものを残していきたいなあと思っています。

そんなふうに続いていく器さえあれば、自分が受け取ってきたものも、自分のところだけで終わらずに済むのかもしれません。

僕らもまた、最後の設計士では決してない。必ず既に何かを受け継いでいるし、受け継いでしまっている。

そんなふうに自分のところまで届いている大玉に気づいて、少しだけ手を添えて、次の誰かへと送っていきたいなあと。

そのための器を、これからもこの場所で、みなさんと一緒に育てていけたら嬉しいです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとって、今日のお話が何かしらの参考となれば幸いです。