昨夜、Wasei Salon内で「通い編集者」の寺子屋企画、そのキックオフイベントを開催しました。
好きなお店や、尊敬できる仕事をしているひとのもとに通いながら、AIの力も借りて、どんなふうに伴走をしていけるのか。それをこれから半年間、有志メンバーのみなさんと一緒に考えていく企画です。
編集や取材の経験があるひともいれば、そういう仕事はまったくしたことがないひともいて、それぞれが「やってみたいこと」と「まだよくわからないこと」を持ち寄って、ざっくばらんにお話しました。
で、みなさんの話を聞きながら、企画した僕自身が「ああ、僕がやりたかったのは、こういうことだったのか」と、改めて気づかされたんですよね。
今日は、そのあたりのことを少し書いてみたいと思います。
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で、まずは、ちょっとタイムリーな話題から入りたいのですが、
キックオフイベントのちょうど前日、PHPというプログラミング言語に重大な脆弱性が見つかったというニュースが世間を騒がせていました。
高市首相もわざわざXで注意を呼びかけて、役所や銀行のサイトまで一時停止するという、なかなかの大騒動だったと思います。
で、これを機にサイトそのものを見直そう、となったとき、そこで本当に問われるのは、技術の話よりも、そもそもこのお店は何を伝えたいのか、どんなひとに来てほしいのか、という話のほうなんですよね。
正直、サイトをつくること自体は、もうAIに頼めばいくらでもできてしまう時代です。
だからこそ、そのひとの信念や哲学を知っているかどうかで、出来上がるものがまったく変わってくる。それがなければ、どこかで見たようなサイトが、またひとつ増えるだけです。
これが不謹慎に聞こえたら申し訳ないのですが、偶然とはいえ、通い編集者という企画にとっては、今ものすごく大きな追い風が吹いているなあと感じました。
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ただ、昨夜みなさんと話しながら改めて思ったのは、この企画で本当に考えたいことは、もっと手前にあるんだろうな、ということでした。
僕が「通い編集者」と呼んでいるものの本質は、AI時代に、気遣いが上手な粋なひと。結局のところ、そこなんだと思います。それ以上でも、それ以下でもない。
たとえば、以前そのひとが何気なく話していた「いつか、こんなことをやってみたいんだよね」を、ちゃんと覚えているかどうか。そして、新しい技術に触れたときに、「あ、これならあのひとがやりたがっていたことが、できるかもしれない」と、ふっと顔が浮かぶような関係性の深さ。
そして次に会ったときに、そのひとが無理なく受け取れる形で、それをそっと差し出してみることができると最高ですよね。
記事を書くのも、サイトをつくるのも、一緒にPodcastを始めるのも、その気遣いがたまたま具体的に形になっただけ。僕は、それぐらいに思っています。
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そして、そうやって通い続ける時間は、そのまま「バトンを受け取る準備」にもなっていくはずです。一緒に時間を重ねているうちに、何かがコロッと転がる瞬間がある。
「それなら、一緒にやってみる?」とか、
「これ、あなたにお願いできないかな?」とか、
そのような両者が想像もしていなかったような展開です。
その瞬間に、たまたまそばにいられるかどうかだし、いるべき場所に、いるべき瞬間にいるというのは、たぶんそういうことなんだと思います。
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以前、AI時代にこそ「鞄持ち」をやってみたらいい、と書いたのも、まさにこの話と地続きの話。
参照:AI時代こそ、「鞄持ち」をやってみたらいい。
もちろん、バトンを受け取ったあとに、それを実際に動かしていく力も必要です。そして今は、その部分は、AIの力を借りられる場面がどんどん増えている。
極端な話、数字に弱くても、論理能力が多少欠けていてもそれはAIが補ってくれる。
今それと同じぐらい大切なのは、そのバトンが、渡す側にとってなぜそんなにも大切なのかを自分がちゃんと知っていることだと思うんですよね。
何を守りたくて、ここまで続けてきたのか、を肌身を持って、そして身体感覚を通して腑に落ちていること。
だからこそ、通っている時間そのものが、準備の時間にもつながっていくんだろうなと思います。
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とはいえ、いつか何かを任せてもらうために、今のうちに恩を売っておこう、なんて考え始めたら、きっと関係性はおかしくなってしまいます。
そういう下心って、相手には本当に丸わかりですからね。
そうではなくて、ただ、このひとの仕事が好きだから、続いてほしいと腹の底から願うから、そばで自分にもできることを、自分なりにやってみる、その積み重ねの先で、気づけば、自分にも引き受けたいものが生まれている状態が、理想的なはずです。
僕は、その遡行的な関係性の発見のようなものに、ちゃんと賭けてみたいんですよね。
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ただし、ここからが今日いちばん丁寧に考えてみたいところでタイトルにもつながりますが、この「粋な気遣い」って、自分ひとりではどうやっても完成させられないんですよね。
昨夜も、参加者の方から「自分が通いたいと思うことと、相手が通ってほしいと思うことは、違うんじゃないか」という問いが出てきました。
これ、本当にそのとおりだなと思います。
こちらは熱意を示しているつもりでも、相手には少し重たいかもしれないし、急に現れた人間に「伴走させてください」なんて言われても、普通は「え、誰?」ってなりますよね。
かと思えば、自分では何気なくやっていた些細なことが、相手にとってはものすごくありがたかった、なんてこともある。
距離が近くなって嬉しいこともあれば、近くなったからこそ頼みごとを断りづらくなる、なんてこともあるわけで。
こういうことは、自分の頭のなかだけでいくら考えていても、なかなかわからない。
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そもそも「粋」って、自分で「僕は粋なひとです」と名乗った瞬間に、なんだか一気に野暮になってしまうようなものだと思います。
相手とのやり取りや、その場にいるひとたちの感覚、さらにはその外側にある世間や社会との関係性、そのある種のノリのなかで、少しずつ浮かび上がってくるものです。
少し難しい言葉で言えば、「間・主観的なもの」なんだと思います。
相手と自分、そして世間との間に、その都度立ちあらわれてくる白いモヤのようなもの。
だからまずは、自分なりの親切を差し出してみて、その受け取られ方から、こちらが教わるしかない。
「あ、これはあんまり嬉しくないんだな」とか、「ここは、むしろ手伝ってほしかったんだな」とか、そうやって、自分の感覚のほうも少しずつ変わっていく。
通い編集者をやっているつもりで、実は自分の気遣いや人柄のほうが、相手との関係のなかで育ててもらっているのかもしれません。
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しかも厄介なことに、この感覚というのは、時代とともに驚くほど移り変わっていきます。
AI時代は、ここがますますむずかしくなるし、急激に変化するところだなと思っています。こちらもほんとうに重要なポイントだなと。
たとえば今、AIで文章を整えて渡すと「手を抜かれた」と感じるひとも、しばらくすれば「そんなことまで手伝ってくれるんだ、ありがとう」と、ごく自然に受け取るようになるかもしれない。
もちろん、その逆も起きるはずです。
最初は何でもつくってもらえることを喜んでいたのに、そのうち、あらゆるやり取りがAIで用意されるようになって、「いや、そこはあなた自身の言葉で話してほしかったんだけど」と感じ始める、みたいなこともあると思います。
人間って、すぐに慣れる不思議な生き物なんですよね。でもだからこそ、行き過ぎたと感じたら、今度は猛烈に反発もしたりする。
そういうハレーションなんかも含めて、何が親切で、何が余計なお世話なのかという感覚は、これから大きく、そして激しく揺れ動いていくんだと思います。
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つまり、これは本当に、時代の空気そのものなんです。
だからこそ、「今って、どのあたりなんでしょうね…?」ということを、みなさんと丁寧に話し続けたいんです。
あのひとには喜ばれたけど、こっちのひとには戸惑われた、とか、自分も最初は嫌だったけど、こういう使い方なら嬉しかった、とか、そういう具体的な身体感覚を、みんなで持ち寄って作戦会議をしてみたい。
しかも、自分たちの集まりの中では当たり前になっていることも、一歩外に出ると、まったく当たり前じゃなかったりもしますからね。
だから、実際に誰かのもとへ通って、その反応を受け取って、また持ち帰ってみんなで話すことに意味があるんだと思います。
一度会って終わりじゃなければ、「前に一緒にやってみたこと、その後どうですか?」と聞くこともできるし、そのひとの変化に合わせて、こちらの提案を考え直すこともできる。
「通う」という言葉には、そういう時間の意味も含まれているんだろうなあと。
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とはいえ、世間の空気に合わせて毎回自分の考えをひっくり返していたら、そもそも何を大切にしたかったのかもわからなくなってしまいます。
なので、自分たちの軸足を定めておくことも、同時に必要になる。
具体的なお互いの経験談に照らし合わせながら、何度も何度も言葉にしておきながら、そのうえで、相手にも自分にも無理のない形を探っていく、その過程。
自分のやってみたいことも素直に伝えながら、お互いにできることを持ち寄っていくという、この往復を、みなさんと一緒にやってみたいんです。
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だから今回の企画では、読書会や対話会を大切にしたいと思っています。
本を読んで考えたことを、実際の関係のなかで試してみて、そこで生まれた違和感や、思いがけず嬉しかったことを、また持ち帰って、似たような興味関心で集っているひとたちと、腹を割って話してみたいなと。
そのあいだにもAIは爆速進化するし、それによって相手の価値観も変わるし、世間や社会も目まぐるしく変化していく。
その間の空気は決して一定じゃないですし、何よりも、自分自身の感じ方だって変わっていくはずです。
昨夜も話しましたが、正しい「通い編集者」のあり方なんて、たぶん存在しないんです。
企画した本人がそれを言うのはずるいだろう、と言われたらぐうの音も出ないのですが、本当に、十人いれば十人の通い編集者がいていいと思っています。
むしろ僕が最初に「これが正解です」と決めてしまったら、その変化を一緒に考える余地まで、狭めてしまう気がします。
実際、昨夜いちばん深く考えさせてもらったのは、企画した僕自身だったかもしれません。もちろん、みなさんにとっても、そんな場であったらほんとうに嬉しいなあと重ています。
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最後に、これは僕自身の生き方の話でもあります。
ひとりで爪を研ぎ、スキルを磨き、気高く飢えている、そういう生き方にもかっこよさはあるし、孤高のあり方を否定したいわけでは、決してないです。
僕もそのような生き方に漠然と憧れていた時期もあります。だからこそ、ブログといういちばん一人で行える仕事から自分のキャリアが始まっているわけですから。
ただ、そうやって、ひとりで考え続けていると、誰にもわかってもらえないと絶望するようなメンヘラっぽい感情になってしまったり、傷つきたくないからこそ、ひとを寄せ付けなくなってしまったりして、自分では気づかない間に、トゲトゲし始めることもある。
自分のなかで大切にしていたものを守ろうとするあまりに、いつのまにか、それを誰にも差し出せなくなってしまうというジレンマですよね。
次第にまわりのひとも腫れ物に触るように接し始めてしまう。
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でも、誰かと関わっていると、自分の思い込みに素直に気づかされることもあるし、自分では大したことないと思っていた力を、思いがけず喜んでもらえることもあると思うんですよね。
そして何より、助けていたつもりが、こちらのほうこそずいぶんと助けてもらっていたんだと、あとになって気づく。
AIによって、自分ひとりでできることは、これからドンドン増えていきます。だからこそ、逆説的に、その力を誰のために使い、誰と一緒に生きていくのか、そっちのほうがますます大切になっていくのだろうなあと。
生きることや働くことの重心が、まさに今、そちら側に移りつつあるんだと僕は思っています。
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いつも書いてしまいますが、こんな時代だからこそ、楽しく、愉快に、親切に。そして群れずに、群れようぜ、と思っています。
相手の力になれることを純粋に喜びながら、ときには、こちらも遠慮なく頼らせてもらう。
そうやって一緒に過ごしているうちに、誰かが大切にしてきたものを、気づけば自分が受け取っていて、そしていつしか、自分もまたそれを別の誰かに手渡していく役回り、その責務を負うことになるんだと思います。
その連綿と続いてきた先人たちからのバトンリレーに参加していく準備を、今から、みなさんと一緒に丁寧に始めていきたいですし、昨夜は、その最高のスタートを切ることができたなあと思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。
2026/10/23 15:26
AI時代の「粋な気遣い」は、ひとりでは学べない。
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