先日、Xでとある教育関係者の方が、大学の価値を入口の偏差値や、出口の就職先、資格、TOEICの点数だけで測るのではなく、その学生が入学してから卒業するまでに何を経験し、何を学び、どう変わったのかを見ることこそ、本当は大事なのではないか、という趣旨の投稿をしていました。

これは本当にそのとおりだと思います。

人間を一発の試験結果や、卒業時の就職先だけで判断するよりも、その人が過ごしてきた時間や、そこで起きた変化まで含めて見ようとするほうが、ずっと誠実な考え方に思えます。

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ただ、その投稿を読みながら、僕は同時に少し怖いことも考えてしまいました。

いまのAIを使えば、その人が日々どんな成果物を生み出してきたのか、何を読んで、どういう問いを立てたのか、さらには睡眠時間や生活習慣まで含めて、これまでとは比べものにならないほどありとあらゆる情報を細かく追いかけることができる。

そして、おそらくこれからは、一発の試験結果だけで人を見るよりも、日々の積み重ねや変化を継続的に評価するほうが、より公平で、より正確な方法として世間でも支持されていくのだと思います。

でも、そうなったとき、子どもたちは生まれてから就職が決まるまで、ほとんど毎日が試験のような状態になるのではないか。

「人間をもっと丁寧に見よう」という圧倒的な善意を突き詰めていくと、なぜかその先に、ものすごく精密な監視社会が見えてくる。

今日は、この逆説について、少し丁寧に考えてみたいなと思います。

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実は9年ほど前、僕は「ちゃんと努力した人が、ちゃんと報われる社会のほうがいい」というようなことを書いたことがあります。


当時は半分皮肉まじりで書いたつもりだったのですが、この発想自体は、今でもかなり自然なものだと思うのです。

コツコツと学び続けてきたし、何年もかけて積み上げてきた。そういう蓄積がきちんと報われる社会のほうが、偶然の一発で成功する社会よりもフェアなのではないか、と。

そしてAIは、いままさに「ちゃんと努力した」という曖昧なものを、本当に観測できる技術になりつつありますよね。

これまで僕らには、学歴や資格という「粗い代理変数」のようなものしかありませんでした。でもAIなら、毎日何を学んだか、どれだけ変化したか、そこまで全部緻密に追いかけることができる。

一発勝負の運にも左右されにくい。「入学から卒業までの変化」を本当に文字通り、すべて見てくれる。

それは、9年前の僕が望んでいた世界そのもの、でもあるはずなんです。

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でも、本当にそれがAIのちからによって実現しそうな状況まできて、ここに大きな落とし穴があることに気付かされます。

勉強時間、睡眠、運動、読書、交友関係、SNSでの発言、授業態度、AIとの対話履歴などなど、最初は「努力の過程を見てあげよう」だったはずのものが、いつの間にか「この人は、どう生きているかをずっと見ること」に変わっていく。

日々何をやっているかこそが大事で、毎日の品行方正な生活態度こそが重要になる。

この「品行方正」という言葉が、僕はいちばん怖いと思っています。

「努力を見る」が、いつの間にか「品行方正を見る」になる。

過程を評価しようとすればするほど、「望ましい過程とは何か」という規範が必ず生まれてきてしまいますからね。

そうなると子どもたちは、「努力する子」になるというより「評価システムから見て、努力しているように見える子」になっていく。

言ってみれば、内申点社会の究極形です。

先生ひとりがつける内申点なら、まだ先生の目を盗むこともできました。でもAIが365日、何年にもわたってデータを統合し続けていたら、目を盗む場所そのものがなくなってしまう。

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そう考えると、一発試験って、実はものすごく自由な制度だったのではないか、と今になって思います。

「お前が昨日まで何をしていたかは知らないし、普段どんな生活をしているのかも知らない。知ろうとも思わない。とりあえず今日、この問題を解け」

これはものすごく乱暴なんですが、乱暴ゆえに、それ以外の時間は、ものすごく自由でもある。

テストまでは、夜通しゲームをしていてもいいし、授業中ずっと寝ていてもいい。

もちろん、何年間も遊び呆けていて、最後の半年だけを死ぬ気で勉強してもいい。試験当日に点を取れば、それ以前の人生は一切問われない。

つまり一発試験とは、「昨日までの自分から逃げ切れる制度」だったはずなんですよね。

社会に埋め込まれた、リセットボタンみたいなもの。

古臭くて不公平だと思われてきた制度の中に、実は人間を過去から解放する仕組みが最初から隠されていたということです。

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一方、AIによる継続評価の社会では、このリセットが効きません。過去はすべて履歴として積み上がっていく。

すると子どもたちは、「今日は何をしたいか」ではなく、「今日これをすると、将来どう評価されるか」を考えながら毎日を生きることになります。

小学3年生のときの読書も、中学生のころの部活も、高校生のボランティアも、毎日の睡眠時間さえも、「未来の自分のスコア」に組み込まれていく。

「これは試験ではありません」と書かれた、人生全体の試験です。

そしてたぶん、それは就職では終わらない。昇進、転職、融資、保険、もしかしたら結婚相手探しから埋葬してもらえる墓のグレードまで、ずっと続いていくのだろうなあと。

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ただ、この話は「息苦しい時代になるね…」では終わらないと思っています。

リセットボタンが消えた社会では、もっと具体的なことが起こるはず。

常時評価の社会では、後から「まくる」ことが一切できない。つまり、敗者復活戦の、消滅です。

高3の夏から一気に巻き返す、なんてことはもうできない。すべてスコアに織り込み済みだからです。『ビリギャル』や『ドラゴン桜』の世界線が完全に消えてしまう。

そうなると、勝負は実質、幼少期についてしまう。

これはスポーツの世界なんかとも、とてもよく似ているなと。

体操やフィギュアスケートの選手たちが、物心つく前から親の判断で競技を始めているように、常時評価社会での評価は、幼い頃からの生活習慣と、それを設計できる親のリテラシーで、ほとんど決まってしまうわけです。

本人が努力に目覚めた頃には、完全にもう遅い。

最初の動機は「努力がちゃんと報われる社会」を突き詰めたはずなのに、気づけば「生まれた家で決まる社会」になっている。

子どもたちに優しく、プロセスを丁寧に見るという一見とても公平な仕組みが、実は生まれの格差をそのまま固定してしまう。

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そして、ここからが本当に怖いところです。

じゃあ、スコアの低い子たちの受け皿は、どこになるのか。

合法的な世界から敗者復活戦が消えたとき、「過去を問わない場所」として残るのは、おそらく夜の世界と裏社会だけです。

かつて「昨日まで何をしていたかは問わない」と言ってくれるその代表格は、試験会場でした。

これから、それは闇バイトの募集要項だけになっていくのかもしれない。

真っ当な社会がAIで分析できる履歴を精密に問えば問うほど、履歴を問わない世界の吸引力は必然的に増していく。

いま社会問題になっている闇バイトや夜職に落ちていく子どもたちの話は、この構造の先で、むしろ加速していくのではないかと思うのです。

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一方で、そこまで落ちずとも、評価そのものから降りようとする子たちも、きっと出てきます。

一周回って、ヤンキーとかバサラとか流行るんかなとも思います。

ヤンキーも、パンクも、ヒッピーも、突き詰めれば「お前たち大人のものさしで、俺を測らせない」という若者文化なわけですから。

社会が人間を細かく評価するようになればなるほど、その評価から降りること自体が若者の反抗になる。だから未来にも、きっとそんな反抗者は生まれると思うのです。

ただ、問題はその先であって、社会は、それを完全に無視するようにもなるんだろうなあと。

ここがAI時代の怖いところ。

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昔の若者が、教師や社会に向かって「Fuck you!」と叫べば、大人たちはちゃんと反応してくれたわけです。

教師が怒鳴り返し、親も怒る。警察に補導されたり、金八先生のような人間が汗だくで説教をしてくれた。

もちろん、それは暴力的でもあったし、抑圧的でもあったから、僕らはあの暑苦しさを、ずっと古臭いものとして笑ってきたわけです。

でも、あの怒りの根っこには「お前をまだ、こちら側の人間だと思っている」という前提があったわけですよね。

その行為はダメだ、その態度は間違っている、でも、お前自身をこの共同体から放り出すつもりはない。だからこそ、わざわざ叱ってくれる。

僕がこのブログで何度も書いてきた言葉で言えば、「包摂の中の否定」です。

行為は全力で否定するけれど、存在は共同体の内側に置いたままにしておく。

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一方で、AIは「Fuck you!」と若者に言われても、まったく傷つきません。

怒らないし、説教もしない。感情的にもなってくれない。ただ静かに、「承知しました」と応答するだけ。

そして裏側では、推薦候補から外す。採用候補からそっと外していく。

これが見事なまでに「排除の中の肯定」の論理だなあと。

「あなたらしい人生を応援しています」「あなたに合った選択肢をご提案します」「多様な生き方を尊重します」そんな優しい言葉とともに、排除だけが静かに進んでいくわけですよね。

しかもおそらく社会は、それを正しい「包摂」と呼ぶはずです。

権力に向かって叫んだら、昔なら権力が振り向いてくれた。でも、未来のシステムは「承知しました」とだけ言って、その人をアルゴリズムの候補から静かに消していく。そしてその人が一生下剋上できない地位へと押し下げて、包摂しました、宣うはずです。

こちらのほうが、ある意味ずっと恐ろしい。

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だからこそ、これから本当に重要になってくるのは、「正しく評価してもらう権利」だけではないのだと思います。

むしろ、評価されない権利であり、記録されない権利。

「ちゃんと努力した人が報われる社会」は、たしかに魅力的です。でも、すべての努力が記録される社会では、すべての怠惰も同時に記録されてしまう。

そして人間というものは本来、測られていない場所でこそ変わったりするものです。

どうしようもなかったヤンキーが、ある日突然受験を決意する。何年も遊び呆けていた人が、誰かとの出会いをきっかけに、猛烈に学び始める。

そのとき、「でも、昨日までのあなたはこうでしたよね」とデータが延々と追いかけてきたら、人は、やり直したくても、やり直すことができなくなってしまう。

「やりなおしてみようと思ってみたところで、どうせ…」とやる気が萎えて、せっかく生き生きしかけた気持ちが萎びてしまう。

つまり、魂が死んでしまう。

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そして実は、この話は先日書いた映画『ちいかわ』のブログと、ここでつながってきます。

映画「ちいかわ」の光と影。 

あの記事で僕は、太陽と月の話を書きました。

影を強い光で照らし出して、一生懸命に消そうとする太陽的な優しさと、影を影のまま静かに包み込む「月愛三昧」の慈悲。

常時評価社会とは、いわば太陽が沈まなくなった社会みたいなものです。

善意の光が24時間365日、人生の隅々にまで届いてしまい、どんなに小さな影も記録され、スコアに換算されていく。

影を持っていること自体が、許されない世界線。

だからこそ、いまの若い子たちは、ちいかわが照らす「月愛」にあれほど強く反応するのだと思います。

すべてを見ていて、すべてを知っていて、それでも暴かず、裁かず、ただただ黙って隣にいてくれるような存在。

測りたくても測れなかったものが見事に測れるようになり、学生を「正しく」評価できるようになる時代とは、裏を返せば、測らないでいてくれる存在の価値が、かつてなく高騰していくような時代でもあるということです。

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あと、ここまで書いてきて、自分でも面白いことに気がつきました。

金八先生とちいかわは、一見すると正反対の存在なんです。

片や、汗だくで怒鳴る太陽であり、片や、黙って隣にいる月のような存在。

でも、このふたつは実は、同じ側に立っているんだろうなって。

金八先生は「お前はまだこちら側の人間だ」と怒りで示し、ちいかわは「いなくならないから」と沈黙で示す。「いつまでも絶えることなく友達でいよう」と。

太陽と月の違いはあれど、どちらも「あなたをこの世界から外さない」という一点においては、完全に同じことを言っているわけです。いうなれば、不動明王のような怒りの仏像と、菩薩のような優しい仏像。

そして、AIの「排除の中の肯定」だけが、光も影も持たない、第三の態度なのだと思います。

照らしもせず、包みもせず、ただ静かに、その人を包摂の地獄へと突き落とす。

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最後に、誤解のないように書いておくと、僕は「昔は良かった」と言いたいわけでも、AIによる評価を全否定したいわけでもありません。

「ちゃんと努力した人が、ちゃんと報われる社会のほうがいい」という9年前の自分の気持ちは、今でもよくわかるからです。

だからこそ、悩ましいなと。

その理想を追い求めれば求めるほど、人間をより精密に測る必然性が出てきてしまう。

人間を丁寧に見ることと、人間を見逃してあげること。これからの社会には、その両方が必要であることは間違いないと思いつつ、そのバランスを取ることがほんとうにむずかしい時代に入ったなと思います。

喉から手が出るほど待ち望んだシステムが、もう現実のモノとして本当の意味で実現してしまうような世の中だからこそ、これから新たに考えてみなければいけない問いだなと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。