最近、立て続けに映画を観ています。
近年の映画は、
「私たちは、個人としても社会としても、いろいろなものを手に入れた。しかし、なぜか生きづらい状態が続いている」
そんなテーマが描かれることが多いと語られる場面が多いです。
今回立て続けに観た4本の映画も、どれもたしかにそのような内容の映画でした。
そして、その映画を起点にして映画内で扱われているテーマをSNS上などで議論する姿もよく見かけます。
でもなぜだろう…? そのテーマをどれだけ議論しても、その生きづらさは解消されないどころか、より複雑に絡まっていくような気がしてなりません。
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それはきっと、「呪い(自己の固定観念)」をより一層深めてしまうからなのでしょう。
たとえそれがフィクションであっても、主人公たちが固有名詞になりストーリーで語られた途端に、僕らは従来の固定観念を剥き出しにして、彼らの姿に共感してしまう。
この没入感が、一般論(ニュース)と映画の違いなのでしょう。
語れば語るほど、その泥沼にハマっていく。
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だから、映画が悪いと言いたいわけではありません。
現代において、いかに僕らが「一般論としてのポリコレ」ばかりを語っているのかを、痛いほど思い知らせてくれる機会が映画にはある。
そのポリコレの議論の下では、個別具体的な人間ひとりひとりの感情や都合が存在していて、
そこにさらに社会の利害関係も複雑に絡み合い、ギリギリのところで今の世界の均衡は保たれている。
一つの視点からだけでなく、映画のように固有名詞持つキャラクターのそれぞれの視点を通して、多面的に世界を眺めることで初めて、
そのバランスが実は極限のところで保たれていることを理解することができる。
今の世界はなるようにしてなっている、何ひとつ恣意的なところなんてないのだ、と。
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また、最近そのうえで強く意識していることは、
映画を観終わったあとに、「役割」を変更してストーリーを遡ってみるようにしてきます。
例えば、男女の立場を逆転させてみる。
あとは、お金持ちと貧乏人や、白人と黒人、権力者と非権力者の立場を入れ替えて捉え直してみる。
そうやって分解しながら考えていくと、
自分から取り払われていたと思っていた思考の癖(偏見や差別の眼差し)が、実はまだまだ根深いものであることを再発見することができます。
なんだかとても質の高い演習問題を解いているような気分になります。
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ド直球にストーリーを振り返って、感想を語り合うと、この根深い呪いの中からは抜け出せない。
むしろ、演出、脚本、監督の手のひらで転がされるだけ。
固定観念に強く訴えかけることで、視聴者はより一層共感してくれるわけだから。
主人公たちの生きづらさに共感するだけではなく、「そもそも、この生きづらさはなぜ生まれているのか?」それぞれの役割やプロットを分解、解体して考えてみる。
これは、自分の中の錆びついた価値観を浮き彫りにしてしまい、ものすごく痛みを伴う作業だけれども、
これをやるかやらないかで、現代における「生きづらさ」というテーマに対して全く違った角度から理解できなあと思っています。
そんなことを考える今日このごろ。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。
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