現代社会において、他者に何かを伝えようとするとき、僕らはどうしても歯切れの悪い表現を選んでしまいます。

具体的には、「自らを叱るように、自己を反省するように、自分が間違っていたと懺悔するように」書かなければ、読者の共感を得られないのではないかと思いがち。

あるいは、断言的な表現をすれば、どこからか批判の石が飛んでくるのではないかと、そんな恐れが、常に僕ら筆を歯切れの悪い方向に鈍らせてしまっているように思います。

しかし、そんな現代の風潮の中に浸りながら、以前もご紹介したカール・ヒルティの『幸福論』を読むと、不思議と心地よさみたいなものをを感じるんですよね。


ヒルティは、重要なことをはっきりと、躊躇することなく書いてくれています。

その率直さが、現代の僕には、逆に新鮮に感じられるなあと。今日はそんなお話を少しだけこのブログでご紹介してみたいです。

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例えば、ヒルティは『幸福論』の中で、今まさに行われているオリンピックについて、その競技に憧れる人たちに対して右往左往する人間に対し、とても興味深い考察を展開しています。

「たとえば、おまえがオリンピック競技で賞を得ようという気になったとする。私だってその気はある、ほんとうにだ。名誉あることだからね。しかしまず考えるべきことは、そういう仕事にはどんなことが先だち、また何が続いて起こってくるかということだ。そのうえで取りかかるがよい。おまえはきびしい訓練を続けなければなるまい。強制的な規則に従って食事をとり、いっさいの美味を遠ざけ、きびしい命令に従って一定の時間に寒暑に身を慣らし、冷たいものを飲まず、むやみに葡萄酒を飲まず、一口に言えば、おまえは医者に身をゆだねるように、教師に身を任さねばならぬのだ。そのうえで競技場へ出なければならぬ。そこでは、手や踝をくじいたり、たくさん埃を吸ったり、ひょっとしたらそれどころかなぐられたり、そのあげくにまだ負かされることがないとは言えない。」


この話は、どのような仕事をする場合においても、まずは自らの身にどういうことが起こるのか、またそれが自らにどんな結果をもたらすかを正確に検討してから、着手すべきだという文脈の中で語られている話です。

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そして、多くの人は、必然の結末、その努力や惨憺たる状態を想像しないで実行してしまうと、最初は喜んで着手するだろうが、難しいことが出てくると、すぐに引き下がることになってしまう、と。

現代のオリンピックも同様に、何か華々しい事柄をメディアを通してありとあらゆる方面から見せられてしまうと「自分にもできるのじゃないか」と、すぐにでも取り掛かろうとしてしまいがちですし、たとえば現代なら金融投資やYouTuberなんかも、その筆頭かもしれないですね。

しかし、ヒルティは以下のように続けます。

再び本書の続きから、引用してみたいと思います。

「こういうことをとくと考えるがよい。それでもなおおまえにやってみたいという気があるなら、競技者となるがよい。さもないとおまえは、レスラーをまねたり剣客をまねたり、ラッパ手を演ずるかと思うと俳優も演ずるといった子供同然の生き方になるのだ。おまえのやり方は子供のとおりになる。いまレスラーであるかと思うと、今度は剣客になり、それから演説者になったかと思うと、今度は哲学者というわけで、しかも一つも全心をぶちこんだものはなく、ただその時々に目にうつるものを猿のようにまねしたというだけにとどまり、次から次と目移りするだけなのだ。」


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この一節を読むだけでも、ヒルティが本書の中で大事なことを淡々と、しかし力強く語っていることがとてもよくわかるかと思います。

彼は、目標を追求することの意味や、それに伴う困難、そして真摯な取り組みの重要性を、遠慮なくガシガシと僕らに指摘してくれているんですよね。それは本当に清々しいほどに、です。

もちろん、ヒルティの時代にも、このような直接的な表現に対して批判的な声があったのかもしれません。というか、あって当然だと思います。(「なんだよ、偉そうに」と。)

しかし、時代が変わって、僕たち現代の読者がこの文章を目にしたとき、そこに生意気さや偉そうな態度を感じ取ることはありません。

むしろ、世間的な空気や建前なんかを完全に抜きにして、僕ら読者に対して、とても本質的なことを率直に語ってくれているなあと感じるはずなんです。

そして、これこそが、歴史的な書物を読むことの価値だと言えるんじゃないでしょうか。

著者は当然すでに亡くなっていて、現代の読者との間に直接的な利害関係は存在するわけがない。残っているのは、純粋に著者の主張や考え方のみです。

だからこそ、僕らは時代や文化の垣根を超えて、その本質的な価値に向き合うことができるのだと思うのです。

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対照的に、現代社会ではSNSやメディアを通じて即座に反応が返ってくる環境の中で、多くの人々が「あの人は偉そうだ」「この人の言い方は不適切だ」といった批判を恐れ、本質的な議論を避けがちです。

その結果、炎上を恐れるあまりに「自らを叱るように、自己を反省するように、自分が間違っていたと懺悔するように」文章を書くことが求められる風潮が生まれているのだと思います。

しかし、このような腰の引けた議論や主張に、一体どれほどの価値があるのかといえばとても大きな疑問が残るはず。

時代を超えて、後世の人々が、そのような文章を読みたいと思うのか。むしろ、時空を超えることを願いながら、本質的なメッセージを込めて書き綴ることのほうこそが、真に価値ある表現ではないでしょうか。

それが巡り巡って、現代の人たちの決して多くの数ではないかもしれないけれど、本当に届いて欲しい人には届く可能性が出てくる。

そう考えると、実際に時代を超えて残ってきた書籍を淡々と読み、自分が感じ入る部分を真摯に受け止めていくことがとっても大事だなあと思わされます。

たとえ偉そうに聞こえる表現や、現代の感覚からすれば、炎上しそうな内容があったとしても、それが本質的だからこそ、今も変わらずに残っていて、かつ自分自身の心に深く届いてくる話にもなるわけですからね。

今日ちょうどドストエフスキーの『悪霊』全3巻を読み終えたので余計にそう思います。本書もまさにそのような類の小説でした。

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また、ヒルティの『幸福論』には、現代でも議論の的となっている「毒親」の問題についても触れられています。

「義務というものは、人さまざまの関係によって定まる。およそ父たる人に対しては尊敬の意をいたし、事々に従い、父がしかり、あるいは打擲しても、これをがまんしなければならぬ。「だがうちの親父は悪い人なのですが」と君は言うのか。よい父が必ずあたるという定めでもあるのかね。そうではあるまい、ただ父が与えられるという定めがあるだけだ。(中略)君がその気にならなければ、何人も君を苦しめうるものではない。君が苦しむのは、君が苦しめられたと思うからなのである。」


この一節は、一見すると現代の感覚からすれば、かなりわかりやすく批判の対象になりそうです。

しかし、その本質に目を向けてみると、ものすごく大事なことを語ってくれているなあと思います。ストア哲学的な考え方ではありますが、物事の受け止め方は自分次第だということを強く示唆してくれていますよね。

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どのように状況を解釈し、対応するかは、常に自分側にあり1ミリたりとも、相手には握られてなんかいない。

しかし、現代社会では、多くの人々が「悪いあの人」、そして「かわいそうな私」という構図で物事を語りがちです。

相手にこそすべての責任があるかのように主張し、自己の内面や態度を顧みることを避けてしまうのです。

もちろん、傷ついた人々へのケアや救済は、別の問題として重要だとは思います。

心の傷を癒すことの価値は、決して軽視されるべきではありません。しかし、その大前提として、「犀の角のように唯一人歩め」という姿勢があってこそ、人々はお互いに本当の意味で助け合うことができるのではないかとも僕は思う。

言い換えると、その前提がない中で、どれだけ「利他だ、ケアだ」と叫んでみたところで、その価値は雲散霧消してしまうどころか、ただの傷の舐め合いとなるだけで、個々人には害悪にしかならないのではないかとさえ思います。

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だからこそ、まずはひとりひとりが、自分の身の振る舞いを真摯に省みる必要があるのでしょうね。

実際、ヒルティの幸福論を読んでいると、ものすごく勇気づけられる自分がいます。これはほかでもなく、この自分のような人間のために書いてくれているとんだと思いながら読むことができる。

それはヒルティ自身が、当時の人々から石を投げられて批判されることを恐れ、自己保身のための腰が引けた議論をしないでいてくれたからこそ、時空を超えて、今の僕らに感じ入るところがあることは間違いないと思います。

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最後に、なぜ相手に批判的な態度を向けようとするのか、そんな自分自身についても、深く考える必要があるなあと思います。

言い換えると、その根底にある自己の動機や感情を、見つめ直すことがとっても大切なことなんだろうなあと思います。

一人一人が良質な古典作品に触れながら、自らの振る舞いを見直しながら、本質的な問題に目を向け続けることが本当に今とても重要なことだなあと。

今日はなんだかとても説教臭い内容だなあと思われてしまったかもしれないですが、いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。