最近、男子バスケットボールを入口に、オリンピックをついつい見てしまっているんですが、しばらく見ないうちに、近年のオリンピックの選手って、みんな「親の作品」みたいになっている印象がとても強いなあと思わされます。

子どもがオリンピック選手になるには「子どもの物心ついた頃から」ではもうたぶん遅くて「物心がつくまえから」親が用意したその環境によって、無意識のうちの感覚や天性が誘われているような状態が必須になる。

両親ともに、プロアスリートだったという話も本当に増えているなあと思います。

そのうえで、子どもの自主性も重んじられていることも理想とされていて、そこまでが一つのわかりやすいテンプレートになっている気がします。

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具体的には「親が自分に押し付けたわけではなく、あくまで自主的に選んだんだ」という風に、です。

「親はその選択を応援してくれたにすぎない」みたいな話をいたるところで目にするなあと思います。

もはやこうなってくると、本当に本人がそう思っているのか、そう周囲から思わされているのかが、いよいよわからなくなってくる。

というかむしろ、このコメントをインタビューで答えられるようになるまでが「親の確固たる教え」のうちに含まれているのではないかと勘ぐってしまうほどです。
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そして、2024年現在、日本が各種目において強くなってきているのは、親やそれに続く指導者のほうが明らかに変わったからであること自体は、きっと間違いなくて。

それは親世代の現役時代の後悔が、そのまま自分たちの子どもに投影されているんだろうなあと思います。

言い換えると、子どもたちは親の後悔から立ち現れてきた「2回目の人生」を再現するかのようなその投影に素直に従っただけとも言えるし、その現役の子たちもまた、自分が親になったら、自分の現役時代の後悔を反映し、またその子どもたちが強くなっていくんだろうなあとも思います。

選手主体で見ていたオリンピックですが、実はこんなふうに親や指導者のほうが「真の主体」であり、このバトンリレーの問題、共同体全体の教育の話なんだと思った瞬間から、良くも悪くもオリンピックの見方が、全然ガラッと変わってしまいました。

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もちろん、学問の分野においては、このようなことが昔から起きていたわけです。

政治家だって2世、3世が当たり前なわけですよね。

そして、スポーツの分野でも、すでにそうなっているんだなあということ。

ここで興味深いのは、スポーツは身体性の問題であるがゆえに、かつてはプロレタリアートの代表のように捉えられがちだった点なんですよね。

どうしても昭和生まれの僕らからすると、スポーツって『明日のジョー』とか『キャプテン』とか『スラムダンク』とか「努力・根性・忍耐」を想像し、努力さえすればスポーツなら恵まれない家庭環境でも、身体能力さえ高ければ頂点に立てるというような幻想がありました。

でも、今はきっと、そのような世界観ではないんだろうなあと。実際のところは、現代のアスリートこそが、ある意味で一番ブルジョワ的な存在なのかもしれません。

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あと、もうひとつおもしろいなと思うのは、オリンピックはテクノロジーの見本市でもあるなと思います。

いまはもう、AIで解析することがあたりまえで、データ至上主義となってきている。

そして、そんなふうにデータやAIを用いることを根本的に僕らは良いことだと思っている。誰にでもチャンスがあるように捉えられなくもないわけですからね。

でも、実際には違うんだろうなあと。

これは対象の被験者は、誰でもいいということにもなるわけですから。

もちろんそれは身体性の問題なんだけれども、その身体性さえも、両親が共にプロアスリートであって、その環境のもと育てられたら、ある程度は掛け合わせでつくれてしまう。

このような傾向が強まった背景には両親が共にプロアスリートだった場合に、アスリートの働き口や活躍の場が増えたことも大きいのだろうなとも思います。

かつては引退後の人生設計が難しかったプロスポーツの世界であっても、今では多様なキャリアパスが存在しているわけで、これにより、両親ともアスリートであっても、子どもをスポーツの道に導けるようになったのもかなり大きいのかもしれません。

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この話は意外にも、先日の「足軽鉄砲隊」みたいな話にもつながっていくなあと思っています。


僕は、あの話を考えているなかで、成田悠輔さんや落合陽一さんたちが提唱するような「データ民主主義」を思い浮かべながら「トップの政治家はもう、ネコでもいい」という話を思い出していました。

でもそれは裏を返せば、だったら、そのポジションにいるのはネコと同じように「天皇」でもいいということにもなると思います。

だって、そこに必要なのは、あきらかな「空白」であって「何か」を詰め込めるキャパがある箱であることのほうが大事なんだろうなと。

だとすれば、その「ない」が与えられるべき納得感をつくれるのはむしろ、天皇のような「歴史」を事前に持つものなんだよなあということ。

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今後は、そのように「すごいから、すごい」と評価されるようになっていくはずで。そしてその「すごい」の根拠が「昔からすごかったから」という歴史や伝統で判断するしかなくなっていく。

これはたとえば、今なんて本当に住む場所なんてどこでもよくなってきているのに、東京や大阪、京都がいまだに経済や文化の中心であることがそれを強く物語っている。

これだけ気候変動で夏は熱くなっても、価値がある場所は価値があるに違いないという理由のもと、人もお金も集まってくる。その結果として、そこに価値が宿る。

だとしたら、誰でもよくなるからこそ、これからはより一層、歴史的な権威性が尊ばれるという逆説的なことが起こることも、もう目に見えているわけです。

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で、スポーツに話を戻して、スポーツだって親がトップアスリートだから、子どももすごいという話になるし、それが理由で、その子達が優先して育成されることだって、まず間違いないわけですよね。

AI活用において、僕が一番驚いたのは、クローズアップ現代の『メダルを懸けた“AI革命”    激変するスポーツとその未来』という回で描かれていた話であって、

オーストラリアの水泳では、同じ学年の選手のレースにおいて、単純な順位や記録だけでなく、その後の成長率も重視されるようになってきているそうです。


つまり、現時点での記録の順位よりも、AIが算定した「将来的な伸びしろ」のほうが評価されるらしい。

つまり、その子どもの成長率こそカギとなる。

それは今の場合は、身体的特徴から逆算して語られるわけだけれども、当然のように、そこには家庭環境や親の人脈、つまりスポーツ村の中でどこに位置しているかも、子どもの大きな”成長”の要素になっていくことも間違いない。

これまでは、それがたまたまそのような外的なファクターが数値化できなかっただけであって、これからは、それらも統計的にカンタンに数値化できるようになるわけだから。

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ただ、もちろん従来も似たような選考基準も間違いなくあったはずなんです。でも、それはどうしても裏口入学みたいな印象を受けて倫理的、道徳的に間違っていると感じやすい事柄だったはずでもある。

言い換えれば、そんな引け目や負い目が人間側には明確あった。目の前の子ども以外のファクターを用いることに対して、です。

でも、これからはそれらがドンドンとブラックボックス化されて、AIはすべてをフラットに数字だけではじき出して、それで冷徹に判断される。そしてそのAIが導き出した結論に従えば、実際に将来的には輝かしい結果が出てしまうわけです。

だとしたら、コーチ陣だってソレには逆らえなくなってしまう。特に何よりも「勝つ」ことが求められるオリンピックのような代表戦に選出される子どもたちは、そうなるに決まっていますよね。

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僕らは未だに、AIやテクノロジーが発達すればするほど、世の中がフラットになると完全に信じ込んでいる。

そこには、「スキルの無価値化が起こる」はずだからです。

だからこそ、必死になってこちらの方向に向かってきたわけでもある。今よりもより平等な社会の到来を目指して、です。

しかし、皮肉なことに、AIやテクノロジーの進化はそれが進めば進むほど、むしろ階層を固定化する方向に作用してしまう可能性があるんだろうなあと思います。

なぜなら、何度も語るように、究極的には「誰がやっても同じ結果になる」からです。ネコでも天皇でもどっちでもいい、というように。

そして、どの選手が代表に最適であるかは、もはやAIによって「客観的に」示されてしまうわけです。

その身体的な特徴を踏まえやすいポテンシャルで言えば、プロアスリート同士の子どものほうが、その身体的特徴や周囲の環境が勝っている可能性は、格段に高くなるに決まっています。

つまり、生まれた瞬間に、誰が代表に最適であるかはもう先に示されてしまっているような状態となっていくわけですよね。

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さて、ここから社会は、どのような方向に向かうのでしょうか。これは非常に興味深い問いだなあと思います。

まったく答えのない問題だなあとも思いますし、それゆえに、ドンドン気づかないうちにAIが侵食してくる領域でもあるんだろうなあと思います。

このようにスポーツの未来は、一般社会の未来そのものでもあるなあと思わされます。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。