先日、職人さんがひとつひとつ手植えしているという「洋服ブラシ」を買いました。
少々値が張るものだったけれども、自分の洋服の趣味も年齢とともに定まってきて、安いものをたくさんではなく、良いものを少しだけ所有し、メンテナンスしながら使い込んでいくという形に変わってきたから、手入れの仕方も変えてみようと思い立ち、清水の舞台から飛び降りるような気持ちで購入してみました。
今日は、その購入体験の中で生まれてきた問いについて少しだけ考えてみたいと思います。
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最初、僕はこの洋服ブラシをECサイトで購入しようと思っていました。
しかし、少し調べてみると、ちょうど銀座三越で催事をしているタイミングだということを知ります。
であれば、実際に現物を見てから購入しようと、なんの気なしに会場に足を運んでみたのです。
すると、自分の父親のような年齢の作り手さんが直接案内をしてくれました。
本当に何から何まで丁寧に受け答えをしてくださって、その中で「手植えと機械だと、一体何が違うのか?」と聞いてみたところ「耐用年数が違います」という答えが返ってきます。
「機械だとどれくらいで、手植えだとどれぐらいなのか?」と改めて問うと、
「機械だと20年〜30年ぐらいで、手植えだと自分の代で買い替えることはまずありません」という答えが返ってきたのです。
この「自分の代で買い替えることはない」という言葉を聞いた瞬間、なんだか僕はガツンと頭を殴れたような感覚がありました。
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購入を決めた後は、日常的な使い方やブラシ本体のメンテナンスの仕方まで丁寧にレクチャーしてくださって、最後の別れ際には、「長く長くお使いください。」とご自身の感情がこもった声で深々とお辞儀をしてくださって、僕がその場を立ち去るまで決して頭を上げませんでした。
この瞬間、これは僕に手渡されたものではないのだと強く実感させられました。
あくまで、自分は「中継者」であると。
言い換えると、自分の所有物ではなく「共有物」を受け取ったような感覚です。
だとすれば、自分はお金を払ってこの商品を購入した瞬間に「権利」ではなく、その「責任」を背負わされたのではなかろうかと。
また、この商品と共に「誰かが想いを込めてつくったものを、次のひと(世代)に、ちゃんと大切に手渡していく責任が、我々にはあるのか?」という大きな「問い」も同時に与えられたような気がしました。
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この点、昭和生まれのひとたちは、この他者から背負わされる責任が大の苦手で、きっと大きな苦痛を感じてきたはずです。
なぜなら、自分よりも大きなもの、たとえば国家や会社、家や大学などから、否応なしに強制されてきた責任によって、本当に酷い目に遭わされてきたからです。
その一番わかりやすいものは間違いなく「戦争」でしょう。
しかし、いま改めて僕らの世代がこの責任を背負ってみると、なんだかちょっとだけ気が引き締まるような感覚があります。
自ら能動的に背負う責任と、他者から無理やり背負わされる責任とでは、全く同じ責任であっても、自らの感触には雲泥の差があますからね。
結婚における配偶者の存在や、その間に生まれた子供なんかも、そのひとつの典型例だと思います。
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思うに「自分の所有物は、自分だけが消費して終わっていい」と思っているからこそ、ひとはいくらでもカンタンに浪費できてしまうのではないでしょうか。
これが、自分の生きている間だけでは終わることはないと思えるようになると、そんな権利の濫用(使い果たす)ではなく、「いかに美しくバトンを渡せるのか」その責任のまっとうの仕方のほうに、自らの美意識も自然と向かうはず。
実際に、宿に戻ってからこの購入した洋服ブラシを使ってみると「まだ存在すら知らない大切なひとからの借り物を、先に使わせてもらっている」ような感覚になりました。
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有形物だけではなく、そんな関係性を自己の身のまわりに増やしていくと、人生は次第に豊かになっていくのかもしれません。
そして、もしかしたら自ら能動的に背負ったそんな権利のような見た目をした「責任」の数々が、この「私」を構成していく要素そのものなのかもしれない。
そんなことを考えさせられる年の瀬のお買い物でした。
いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。
2021/12/13 11:16