多くのひとが、できるだけうまくいっている人を探し出し、その教えをちゃんと理解して、自ら実践することが「思考する」ことだと信じています。

でも、無意識的にとらわれているその構造や仕組み、フレームワークに対して、自覚的になっていくことが本来の「思考する」だと僕は思います。

自分が「個性」や「真理」だと思っているものが、実はすべて自分が属しているコミュニティや集団、業界内で長い時間をかけて形成されてきた構造や枠組みにすぎないのだと発見していくこと。

「その結果として、自分はいったいどんな構造の中に閉ざされてしまっているのか。どうすれば、そこから抜け出すことができるのか」

そんな問いを立てることが、本当の意味で「思考する」ことなのではないかと思うのです。

映画『CUBE』のように「自らが閉じ込められている檻が、どのような形質形状で、どれぐらいのサイズなのか」を探っていくことにも、とてもよく似ている。

じゃあ、具体的にどうすれば自ら思考することができるようになるのでしょうか?

この点、僕は有益な方法が主に3つあると思っています。

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まずは、適切な距離や時間をおいてみること。

中学や高校のときに「自分が一体どんな構造の中にとらわれていたのか」を、社会人になってから振り返れば誰もが冷静に判断できるように、距離と時間によるズレていく力を利用する。

言い換えれば、「万物が流転する力」を活用する。

これが誰にでもできる、一番簡単な方法だと思います。

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次に、全く違う業界や普段交流しないひとに自ら積極的に会いにいくこと。ここには「本を読む」なども含まれています。

自分の視点とは全く異なる他者の視点を借りることで、自分の姿が次第に浮き上がってくる。

誰でもすぐに体感できるのは、海外に行くことだと思います。

また、動植物など他の生物を研究することも、この方法の中に含まれるでしょう。

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そして最後に、改めて「目的」に忠実になってみることです。

不思議なことだけれど、人間は方法よりも目的の方を積極的に捻じ曲げていきます。

思考しないひとたちが集まると、方法のほうに権威性が生まれてくることが一番大きな原因だと思います。

具体的には、型を重んじてドンドン伝統芸能化していく。以前この記事にも書いたような話にも近いです。

だからこそ、積極的に目的に立ち返ってみる。そうすると、この集団に属する人たちがどんな構造にとらわれているのか、次第に理解できるようになってくる。

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さて、ここまで考えてくると、人に思考させないためには、この逆を実践させればいいこともよくわかってきます。

具体的には、時間や距離の隔りによる変化を極力小さくして、同じような人々が集まる空間をつくりだし、目的ではなく方法面にこだわるように仕向けること。

そして、これらすべてがあたかも自分の思考によって導き出された帰結なのだと思い込ませて、自らの「個性」を通じて能動的に行なっていると錯覚させる(教育やメディアなどを通じて)。

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さて、このような方法で自ら思考できるようになったうえで、何を大切にしたいと思うのかは人それぞれです。

何かしらの目的があって、その構造や仕組みが構築・形成されてきたことは間違いありません。

それをそのまま受け入れるのもきっと正解ですし、全く異なる構造や枠組みを採用している別の集団に、自らが移動してしまうのもきっと正解です。

例えば、日本人が何を構造的に強いられているのかをわかったうえで、自ら積極的に日本人らしく振る舞うのもありですし、日本以外の場所で生きるのも大いにあり。

でも、できることならこの思考過程を辿り、その構造に自覚的になたうえで、自ら判断し、自ら選び取りたい。

それが、主体的に生きることにもつながっていくのだと思います。

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昨夜開催されたWasei Salonのオンラインイベントを通じてそんなことを考えました。

今日のお話がいつもこのブログを読んでくださっている皆さんにとっても考えるきっかけとなったら幸いです。