コロナのように何か新しい事象が起こると、僕らはその影響による良し悪しばかりを議論してしまいます。

それは、現在行われている各党の選挙活動なんかを見ていてもよくわかる。

でも、本当に大事なことは「良し悪し」の議論ではなく、「それによって社会と人はどのように変化するのか」です。

この歳になってやっと気づけました。今日はそんなことについて、少しだけ書いてみたいなと思います。

ーーー

この点、インタビュアーは常に目の前の相手(有識者)の「評価」を引き出したいと考えています。

だから、「評価」が出てくるような質問ばかりを仕向けている。

それが批判的な意見であればあるほど嬉しい。ドンドン自分達のメディアに注目を集めることができますからね。

そのようなやりとりを日常的にテレビや新聞、ラジオで見せつけられていると、自分自身も「良し悪し」という評価軸による意見を持たなければいけないと思いがち。それが社会人としてのあるべき姿なのだと。

ーーー

でも、コロナのような時代の変化が及ぼす影響は、「そういう影響を受けたひとが増える、そういう影響を受けた社会ができる」という事実でしかない。

たとえば、インターネットができたときには、すでにスマホやSNS、仮想通貨が誕生することは、ある意味ではもう決まっていた。

2000年台初頭のインターネットの良し悪しを語る議論が、20年後の今に影響を及ぼしたとは到底思えない。

だから、いま盛んに議論されているAIやクローン技術のような「ポストヒューマン」的な話も同様だと思います。

これから「ポストヒューマン」の波がドンドン大きくなることは間違いなくとも、これがもう小さくなることはない。

どれだけ副産物が大きいと想像できたとしても、楽しくて面白くて便利で興味深くて、根源的に人間が求めてしまっていることであれば仕方ない。

つまり、どれだけその兆しの良し悪しを議論してみたところで、その波は必ず自分達のところまで到達するのです。これは災害と同じで、決して防ぐことはできないのだと思います。

ーーー

では、私たちはどうすればいいのか?

その変化をしっかりと自分の目で見定めることだと思います。

なるべく偏見やバイアスをかけないで、悲観も楽観もせず、正しく認識する。

私たちにできることは、それだけなのかなと。

僕らは、人間が生み出したからには、ソレを人間がコントロールできると信じてしまっている。

民主主義という仕組みは、その権利(決定権)を一人一人に与えていて、同じ意見の者同士で団結すれば、自分達が思うような理想的な方向に変化させていくことができると思ってしまうけれど、それは完全なる幻想なのでしょう。

これは、ニヒリズムではなく、リアリズムです。

ーーー

そのうえで自分は「どう生きたいのか、どう働きたいのか」を考える。

次に来る波に抗いもせず、服従もしない。

そんな柔軟な存在からは、日々の暮らしや人間の尊厳までは簡単に奪うことはできないでしょうから。

もし、本当に人々の力で社会が変わるとしたら、一人一人のそういった些細な柔軟さから生まれてくる日常の変化であり、「言葉」による空中戦の議論の応酬ではない。

そんなことを考える今日このごろです。