人はいつ愛着を覚えるのか。それがずっと疑問でした。

最近の仮説は「壊れて、直すとき」のような気がしています。

建物や持ち物でも、何かを修理しているとき、または新たに刷新(アップデート)するとき、人は喜びを感じて、愛着を持つ。

常に世界が刻一刻と変化しつづけるなかで、同じものは二度と存在し得ない。言い換えれば、常にソレは壊れ続けているのです、諸行無常。

その壊れていく過程に抗えたときに、ひとは不思議と「高揚感」を感じているようです。

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逆に言えば、予定調和をひどく嫌う感覚がある。

口では「計画通りに進むことを望んでいる」と言いつつも、何かに一度乱されたいという願望が、無意識の中にどこか存在しているような気がしてなりません。

乱されたうえで、再度立て直したい。その時に喜びや高揚感を感じてしまう。

乱れたものを整えて、整理整頓する感覚もそうです。

もちろんこれは、物質などの有形物に限りません。自己のスケジュールや、社会の仕組みなどの無形物においてもまったく同じことが言えるかと思います。

なんなら、一度「疎外」されたいのだと思います。

文明化する中で、より便利になっていく過程の中で人間は「疎外」される状況を自ら意図的に創造しているようにも思えます。

そしてそれを問題視して、積極的にまた課題に取り組みたがる。完全なる自作自演です。

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このように人間は、「自らつくっては壊し、それを直す」という行為をひたすら繰り返して喜んでいる。(自然消滅などの無作為ゆえの破壊も含みます)

それが良い・悪いではなく、客観的に観察してみてみて、そのときに高揚感や愛着をおぼえる生き物だということです。

特に、日本人の場合はその傾向が非常に強いように思います。

「平家物語」の冒頭も、「方丈記」の冒頭も、「もののけ姫」のラストシーンも。「国破れて山河あり」からまた始まる「何か」が、私たちは本当に大好きだ。それを素直に認めたい。

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さて、ここまで読んできてくれた方は、タイトルの意味も何となく理解できてきたかもしれません。

いま声高に叫ばれている「サスティナブル」を追い求める風潮も、逆説的にはそういうことなのではないでしょうか。

つまり、人間が生きていれば(時間が経過すれば)、必ず世界は無秩序に拡散していき、カオス化していくのが自然の摂理。

その点で言えば、「サスティナブル」という概念は、ものすごく「不自然」なわけですよね。

だからこそ、それを人為的、人工的に操作して「ニュートラル(持続可能な状態)」に戻していきたい。

意図的に「破壊と創造」を繰り返すこと以上に、「同じものが同じ姿で、同じ場所にあり続けること」が一番不自然であり、人工的なわけですから。

「サスティナブル」というと、どうしても「環境保護」のような言葉がセットになるので、自然により近づくような印象を抱きますが、実は「人工的な操作の極み」とも言えるのかもしれません。

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古くは「天下泰平」「平穏無事」という概念もそうだった。

しかし、それが絶対に不可能であり、不自然なことだとも本能的には理解している、だからこそ人為的に操作してみたいと感じている。

繰り返しますが、少しでも直せた(抗えた)と思えた時に、ひとは喜びを感じる生き物なのですから。

これは人間が何千年、何億年という歴史の中で、飢饉、疫病、災害、戦争などひたすら繰り返すなかで遺伝子的に獲得したマゾ的な感覚なのか。

それとも、そもそもこの人間の欲求自体もすべてひっくるめて「自然」そのものなのか。

それは誰にもわからない。

でも、そうとしか思えない何かがある。

僕の中でもまだまだ曖昧な気づきで、世間の一般的な考え方とも少し異なる考え方なので、理解しにくい部分もあったかもしれませんが、少しでも何かしらの考えるきっかけにつながったら幸いです。