なぜ「差別」が生まれてしまうのか。
それは、「物の形」だけを見て、その本質を判断しようとしてしまうからだと思います。
「◯◯という形を持ち合わせているものは、◯◯であるに違いない」と判断すると、その偏見が差別的な扱いを生んでしまいます。
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この点、「物の形」というのは、言葉によって同一区分だとみなされているものだと考えるとわかりやすい。僕らはあたりまえのように日本語を用いて、すでに辞書に載っている「名詞」を用いてコミュニケーションをしているけれど、
なぜこの「名詞」が存在しているかといえば、これまで日本語を扱う同一民族同士のあいだで、たまたまそのように区別することが、過去に「便利」だったり「有益」だったりしたことがあるからソレとコレを区別しているに過ぎません。
たとえば、「馬」と「シマウマ」を僕らは同じ馬の仲間だと認識しながらも、別々の名詞で明確に区別しています。
どうして僕ら人間が、馬とシマウマを区別するようになったかと言えば、それは「家畜化」できるかどうかが人間の側にとって、非常に重要な違いを生み出し、それを別々の「名詞」で区別することに多大なるメリットが存在したからなのだと思います。
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この点、國分功一郎さんの書籍『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ 』のなかに、とてもわかりやすい例が書かれてあったので、少し引用してみましょう。
たとえば競馬場や牧場で見る馬と、アフリカのサバンナにいる野生のシマウマとを、私たちは同じ馬だと考えます。色や模様は違うけれど、どちらも馬の形をしているからです。
でも実際には、両者の生態は全く異なっています。家畜化された馬は人を背中に乗せることができますが、野生のシマウマに乗ることはできないそうです。動物は普通、自分の背中を預けるなどという危険なことはしないからです。つまり、家畜化された馬がもっている力と、シマウマがもっている力はその性質が大きく異なっている。
力の性質に注目すると、馬とシマウマはまるで別の存在として現れます。にもかかわらず、私たちはそれらを形でとらえるから、両者を同じく馬だと考えるわけです。
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人間を「男」と「女」で区別することも、「物の形」によって区別していることにほかならない。
そして従来はそんなふうに「男」と「女」で区別することが、有利に働く時代があったのでしょう(戦時中なんかは特にわかりやすい例だと思います)
でも、そうやって「物の形」で区別すると、どうしても「差別」にもつながりやすいということが明々白々な事実として立ちあらわれてきて、現代社会ではむしろ区別することのほうが大きな問題となっています。
だからこそ、その「区別」を問題視するひとたちは、これからは「物の形」で区別することはやめて、人間をすべて「均一化」しましょう!と逆張りの主張をしているわけです。それが現代におけるリベラリズム的な考え方。
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この点、もちろん「差別」は良くないとは思いつつも、本当にすべてを均一化していくことが正しいのかは、少し疑問が残ります。
この考え方は進化しているようで、僕はむしろ退化しているようにも思う。
それはつまり、Aさん、B君、Cさん、D君・・・全員が同じ「人間」なのだから、全員を「人間」として一律に扱いましょうと言っているわけですから。
そうすると、たしかに全員が同じ機会、同じ負担割合を背負うことにはなるかもしれないけれど、それぞれの内在している個別具体的な「力」は、ドンドンと抑圧される方向へと向かうことは間違いありません。
この点、スピノザは、「物の形ではなく、物がもっている力が本質」だと主張しています。同書から再度引用してみます。
たとえば男性と女性というのも、確かにそれぞれ一つのエイドスとしてとらえることができます。そうすると、たとえばある人は女性を本質とする存在としてとらえられることになる。その時、その人がどんな個人史をもち、どんな環境で誰とどんな関係をもって生きてきて、どんな性質の力をもっているのかということは無視されてしまいます。その代わりに出てくるのは、「あなたは女性であることを本質としているのだから、女性らしくありなさい」という判断です。エイドスだけから本質を考えると、男は男らしく、女は女らしくしろということになりかねないわけです。
それに対しスピノザは、各個体がもっている力に注目しました。物の形ではなく、物がもっている力を本質と考えたのです。そう考えるだけで、私たちのものの見方も、さまざまな判断の仕方も大きく変わります。「男だから」「女だから」という考え方が出てくる余地はありません。
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今の世界は、「男」と「女」という括りを取り払い、そのかわりにすべてを「人間」という括りに変えましょう!としているだけのようにも見える。そのほうが「有益」だから、と。
でもこの変化によって、もし本当に男女の扱いが完全に均一化されたあかつきには、今度は「同じ類人猿なのに、人間とチンパンジーが差別されているのはおかしい」となり、「同じ哺乳類なのにイルカが…」「同じ動物なのに犬が…」とドンドンすべてを均一化する方向に向かうことは間違いありません。
最終的には「同じ原子の集まりなのだから、すべては平等に」となっていくでしょう。
なんだか笑い話のようですが、この発想でそれぞれの区別を取り払い、すべてを均一化していけば実際にそうならざるを得ない。
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だからこそ、本当に大事なことは、スピノザが語るように「物の形」をその個体の本質だと捉えるのではなく、それぞれの生物個体の中に内在しているそれぞれの「力」を本質だと捉えて、それが一番その力を発揮できる状態とは何かを個別具体的に探っていくことなのだと思います。
ひとつひとつをまったく異なる物(生命個体)として捉えて、ひとりひとりの力が一番活かされる方法をみんなで探っていくこと。
そのためには、ひとりひとりが自分の基準で考えないといけなくなります。誰かが定めてくれた「物の形」で区別し判断しないことが、非常に重要になってくるわけですからね。
とっても難しいことだとは思いつつも、今ものすごく大事なことだと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。