先週末、こんなツイートをしてみました。
これを受けて思い出したのは、養老孟司さんの『バカの壁』の中にでてくる、以下の一節です。
ある時、評論家でキャスターのピーター・バラカン氏に「養老さん、日本人は、〝常識〟を〝雑学〟のことだと思っているんじゃないですかね」と言われたことがあります。私は、「そうだよ、その通りなんだ」と思わず声をあげたものです。まさにわが意を得たりというところでした。
日本には、何かを「わかっている」のと雑多な知識が沢山ある、というのは別のものだということがわからない人が多すぎる。
きっとこの養老さんのお話は、一読しただけではわけわかんないと思います。
僕も最初読んだときは、まったく意味がわからなかった。
これは、日本の「常識」に染まりきっていると、きっと意味がわからない部分なのでしょう。
でもやっぱり、若者の直感力というのは凄まじくて、若者たちのほうがちゃんと世界を認識しているんだろうなあと感じさせられます。
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そもそも、人の「わかる」って本来はもっともっとグラデーションなんです。
でも今は、「わかる」と「わからない」の二者択一になってしまっている。
その一番の原因は「わかる」という事柄が、世間を説得するために用いるものになってしまっているからだと思います。
つまり、現代において「わかる」という行為において、一番重要視されていることは、自分がわかったことによって私自身が変化することよりも、相手を納得させられて、相手を変化させられるかどうかが中心になってしまっているからです。
もっと言ってしまえば、相手を論破するための「わかる」が、いま至るところで求められてしまっている。
だから「わかる」が「雑学」になるのです。そういう詭弁を語るための道具となってしまっている。
その証拠に、雑学のような「わかる」をペラペラと話せる人間が、YouTube上に雨後の筍のように現れていて、そのような人間が喋っていることがドンドンと切り取られて拡散されていく。
古代ギリシャ時代のソフィストのときから、その根本は何も変化していません。
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でも、本来の「わかる」という感覚は、もっともっと内発的なもののはず。
自己の内側からゆっくりと時間をかけて、ジワジワと立ちあらわれてくるものなのだと思います。自分の中から産まれてくるものに、自分自身でじかに触れる感覚にも近い。
参照:自分を自分でじかに肯定できるということ。
これは、本当はものすごく時間がかかる行為だと思います。
誰かから、何かわかりやすい話だけを聞いて「はい、わかりました」という話では決してない。
本来の「わかる」とは、たとえば、自分を産んでくれた親の年齢になってはじめて、当時の親が抱えていた葛藤や苦悩が遅れて理解できてくるような、それぐらい時間のかかる行為だと思うのです。
その間には、途方もないほど無数の段階が存在し、グラデーションのように染み渡っていくもの。
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そして、ここが一番重要なことだと思うのですが、このような「わかる」という行為は相手には説明できないものなのです。それは徹頭徹尾、私の感覚。
ここに「わかる」における、ある種の弱さがある。「わかる」という行為の最大の弱点と言い換えてもいいかもしれない。
どういうことか?
つまり、自分の「わかる」を用いて、相手を説得できないんです。
言い換えると、自転車を乗れるようになるとか、そっちの感覚に近い。身体的な技能の獲得に近いんですよね。
自転車に乗ることを、言葉で相手に説明することはできません。
でも、「自転車って何?」「なんで人間は自転車に乗れるの?」と聞かれたら、
「そもそも、自転車というのは二輪の乗り物であり、人間がそれにまたがって、バランスとってペダルを漕ぎ続ければいいんだ、止まったら倒れてしまう。それが自転車の原理である」と雑学のようなことはペラペラと誰でも簡単に説明することは可能です。
こうすると、説明している側も、説明されている側も、なんだか自転車に乗ることに対して「わかった」気になってしまう。
両者ともに、自分自身が自転車にも乗ったことがない、つまり「自転車に乗れない」のにも関わらず、そんなことをわかった気になって説明することができてしまう。
それでも、10人中1人ぐらいが、なんだかずっとわからなそうな顔をしていると、「なんであいつはこんなにも丁寧に説明してやっているのに理解できないんだ?バカなんじゃないのか?」と訝しげな顔をし始める。
でも、むしろ「バカの壁」にぶち当たっているのは、そんなふうにわかった気になっている自分たちのほうなのです。
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現代における「辛いよね、わかるよ」という言葉の背景には、自転車に乗れないのに、乗れるものだと自分が勘違いしているひとたちが、安易に自転車に乗っている人に歩み寄ってきて、その自転車に乗ることの辛さや苦しさを理解した気になってしまっていることが原因です。
そのような雑学のような「わかった」が、「わかり合えなさ」をより一層助長してしまっている。
だからこそ、淡々とわかりみのほうを深めていきたいと、若者たちは無意識に願うのでしょう。
人と人が「わかり合える」という状況は、絶対に到達できない地点ではあるのだけれども、その到達のできなさに絶望しつつも、決してあきらめない。
その「わかろうとする運動」の中にしか本当の「わかり合える」という状態は存在しないのですから。それは「民主主義」の話とまったく一緒です。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。