最近、若い人でもあたりまえのように口にするようになった「中庸」という概念。

SNS上の過激な議論などを受けて、極端を避け、適度でバランスの取れた行動や態度を保つことを重視したいと願うひとたちが、この言葉を用いながら「バランスの重要性」を自ら説くようになってきたなあと思っています。

ただ、僕が思うに、この中庸という言葉を若い人たちが用いたくなるような場面において想定されているのは、真ん中を取って、そのバランスを常にキープし続ける状態であり、どちらかと言えば静的なイメージであることが多い。

でも僕は、もう少し揺れ続ける「振り子」のような、動的なイメージを想定しています。

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たとえば、「大人」と「子ども」の対比。多くの社会人は、自らの中にこの両極端な存在を抱えて生きています。

で、大人と子どもの中間を取るということが大事だと思われているような気がするのだけれど、本当に大事なことは、その行ったり来たりなんだろうなと思うわけです。

大人になりすぎてもダメだし、子供でいつづけてもダメ。

ただし、現代は、あまりにも大人な観点、しかもただ空気が読めるムダに賢いだけのダメな大人の側面が際立ってしまっている。

だからこそ「子どものままでいろ!」というような話が繰り返し語られて、スティーブ・ジョブズの「Stay hungry, stay foolish」なんかは、その印籠のように掲げ続けられている。

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もちろん、僕もどちらかと言えば、空気を読まないそんな「子供らしさ」が本当に大事だと思う派です。

ただそうすると、単純に風当たりも強くなってきます。周囲との軋轢やハレーションのようなものも生まれやすいわけですからね。

もちろんそれが悪いということではなく、それを甘んじて受け入れるなら、やっぱり「死ぬまでやったれ、猿芝居」的な覚悟も同時に必要になってくる。

たとえば、若い頃に有名になりすぎてしまったミュージシャンやアーティストが、その置かれている立場に耐えられなくなって自殺してしまったりするように、それを貫き通そうとすると、それはそれで非常に辛い場面も増えてくる。

だから、本当はそれらの特質を上手に使い分けていくことが大事なんだろうなと思っています。

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さて、この点に関連して、以前もご紹介した東畑開人さんと斎藤環さんの対談本『臨床のブリコラージュ』という本の中に書かれていた「ねじれた二重体」の話がとてもおもしろかったです。

「近代以降の精神医学は、普遍と個人(専門性と素人)とのあいだで、弁証法的な葛藤を繰り返してきたのではないでしょうか」という斎藤環さんの問いから、哲学者のミシェル・フーコーが指摘したという、とてもハッとさせられるような二重体の視点が語られていました。

以下は本書からの引用となります。発言はすべて、斎藤環さんの発言となります。

フーコーは、カントの体系に、次のような基本想定を見出したといいます。すなわち、人間とは「超越論的な主体性」と「経験的な主体性」との奇妙な二重体であり、両者は交わることのないねじれた関係にある、と。そしてフーコーは、カント以降の思想史では、人間を二重体のどちらかに還元しようとする運動が繰り返されてきたと批判しているのです。
どうでしょう。ここにあるのは、いわば哲学的な振り子ですが、構図はそっくりですよね。超越論的~とかいうと難しく聞こえますが、要するに環境とか経験とかに左右されない、最も抽象レベルの高い自己のことでしょう。あらゆる経験や思考を俯瞰することができる、不動のメタポジションですね。経験的な主体、はその逆で、置かれた環境や目の前の経験に影響されつつ右往左往する自己のことです。


ちょっと小難しいと思われてしまったかもしれないですが、斎藤環さんがおっしゃるとおり、そんなに難しいことは語っていないと思います。

今日の話に落とし込むと、抽象的なメタ視点が大人であり、トコトン実生活に基づいたベタ視点が子どもである、そのような解釈として受け取ってもらって問題ないと思います。

そして、このような奇妙な二重体のことを、巧みに言い表した中井久夫の言葉がここで合わせて紹介されていました。

それが昨日もご紹介した、「自己は世界の中心である(超越論的主体)と同時に、世界の一部である(経験的主体)」なんですよね。

「この二つのことを同時に感じとることが、精神健康の目安のひとつです。なんのことはない、健康な人はこの『ねじれた二重体』をなんとなく両立させているものですよ」というふうに本書の中では語られていて、これは本当にそのとおりだなあと思いました。

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つまり健康な成人は、振り子の行ったり来たりを繰り返しているものなんだ、と。

そして、昨日のブログの話でいけば、先駆的決意性と公共性を両立させることにも、見事に関連してくる部分でもあります。

この、ねじれた二重体を振り子のように行ったり来たりしながら、なんとなくうまく過ごしていくことが、きっと僕らに求められていて、なんだかこれは遺伝子の二重らせん構造みたいな話でもありますよね、本当に。

どちらかが破壊されても、すぐに修復できる状況は、ねじれた二重体を保つことができる状態だからこそ可能であり、ゆえにねじれた二重体であることが理想的なんだろうなと。

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そして、これは「子どもと大人」みたいな二項対立以外の場合においても、似たようなことが考えられると思うのです。

たとえば「連帯と孤立」のような場面においても、きっと当てはまる話ですよね。

この点においても、きっと振り子のような状態であることが理想的。

そして現時点における世間全体としては、つながり方面に大きく偏りすぎている気がします。

コミュニティを運営しているお前が言うな!と思われてしまうかもしれないけれど、やっぱりそう思うから仕方ない。

たとえば、週刊少年ジャンプの「友情・努力・勝利」という誰もが知る標語で育ってきて、ジャンプ的な成長物語を基盤にして世界を眺めてしまっているのが僕らです。

そんな世代からしたら、まず友達とつながることを全面的に良しとしてしまっている。

でも、本来はきっと孤立も同じぐらい大事であるはずで。

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この点、以前もご紹介したことがある内田樹さんの『勇気論』は、まさにこれを問題意識のひとつとして書かれている。

具体的には、世の中から「孤立に耐える勇気」がなくなってしまった、と。

でも、この本の良いところは「だからちゃんと孤立を恐れず、勇気を大事にしろ!」とだけ振り切って一つの立場に居着くわけでもない。

内田さんは、『勇気論』のあとがきを、以下のようなエールで締めくくります。僕は、この部分の認識が本当に大事だなあと思わされました。

以下で再び本書から引用してみたいと思います。

勘違いして欲しくないのですが、「孤立に耐える」というのは、ただ「我慢する」という意味ではありません。もっと向日的な、もっと希望に満ちたものです。     この本の最初の方に「連帯を求めて孤立を恐れず」というスローガンが 60年代の終わりに学生たちに強い情緒的反応を起こしたということを書きました。改めて書き写してみても、この言葉はことの本質をみごとに一言で言い切っていると感じます。     人は誰でも連帯を求めています。でも、なかなか連帯できる相手が見つからない。だからといって、すぐには絶望しない。「連帯は簡単なものじゃない」と 肚 をくくって、しばらくの間は孤立に耐える。 孤立に耐えられるのはいつか他者と連帯できると信じているからです。勇気を持つのは、孤立に耐えて、連帯が成就する日まで生き延びるためです。     みなさん、勇気を持って生きてください。僕から申し上げたいことはこれに尽くされます。


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この行ったり来たりを繰り返したことがある、どちらの景色も眺めたことがある。という人たちが集まっている空間を構築していくこと。

ねじれた二重体を、なんとなくいい意味で”だましだまし”実践している大人が集っていることが、今めちゃくちゃ大事だなと。

それは、ひとつの結論に辿り着くことを真理だとはしない姿勢です。

さらに「対話」を大切にし、常に他者に開かれ続けている状態であること。

というか、対話こそが振り子の揺れを生み出していると言っても過言ではないのかもしれない。

で、これは「哲学と文学」のような対比にも言えるなあと思います。ドストエフスキーや村上春樹の小説なんかはまさにそう。

これは東浩紀さんの『訂正可能性の哲学』の話の中に出てくる、バフチンのポリフォニーの話なんかが、とても参考になるし、つながってくるなと思っています。

以下は『訂正可能性の哲学』からの引用となります。

ポリフォニーはもともと音楽用語だが、ここでは文学分析に転用されている。文字どおりには「多声性」という意味で、複数の声が並び立ち、ひとつの声に収斂しないさまを表している。ひとつの声に収斂しないとは、裏返せば、対話が終わることがないということでもある。
(中略)
彼が想定する対話は終わることがない。いかなる結論も暫定的なものにすぎず、あとでいくらでも転覆しうるからだ。人間のコミュニケーションは、みなが同意する安定した「真実」にけっして辿りつくことがない。そしてそれは失敗ではない。バフチンの考えでは、むしろその完結不可能性こそが人間の自由を保証するのである。


自己の孤立性を生み出す運動エネルギーのようなものは、きっと他者との連帯の中からしか生まれてこない、そんな逆説やジレンマみたいなものが間違いなくあるなと思います。

だからこそ、振り子が、振り子として正しく機能する必要がある。

これはドストエフスキーの小説を実際に読むと本当によく伝わってくる。「対話は終わらない」それが大きな財産というか、そのときに「生きた物語」に変わり得るんだろうなと思うわけです。

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どちらか一方に偏り続けるわけでもない。振り子のように、同じようなところを行ったり来たりしながらも、そのどちらにも固執していない姿。それが良いコミュニティだなあと素直に思います。

常に他者を包摂できる強さがある、コミュニティにおけるそんなレジリエンスのようなものは、きっとここに宿るはずです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。