「業務効率化をしたら、いつ楽になるのか?」

これは先日、若月さんが書かれた問いです。


冷静に考えれば、本当にそう思ってしまうことって多いですよね。

過去20年間、ITを用いて生産性を高めてきて、さらに今はAIによって業務効率化をしてみても、時間が増えるどころか、時間はますますなくなっていく。日々が忙しくなっている一方だと感じる方はきっと多いはず。

これは、リチャード・ドーキンスの有名な一冊『利己的な遺伝子』の中に出てくる「赤の女王仮説」の話みたいな話だなと思ってしまいます。

「その場にとどまっているためには、全力で走らなければならない」というやつです。

もっとわかりやすく説明をすると、赤の女王仮説とは、進化の競争において生き残るためには、他の種と同じ速度で進化し続けなければならないというものです。

これは、『不思議の国のアリス』の世界で、赤の女王が「ここに留まるためには全力で走り続けなければならない」と言った場面に由来しているから、このように呼ばれています。

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つまり、業務効率化や生産性向上の競争においてもきっと同じような話であって、他社や同僚に遅れを取らないためには、常に新たに改善し続ける必要がある。

結果として、生産性は高まるわけだけれども、周囲の人間も同様のツールを使ってしまうため、その差は一向に縮まることもなく、むしろより高度に複雑な競争になっていく。

仕事以前に、そもそも生物の種の保存の構造自体から、そうなっているということでもあるわけですよね。

これは言い換えると、そもそもこの業務効率化、生産性、他者を上回ろうとする競争は、「あなた」個人のために行われているわけではないということです。

いつだってそれは、共同体や組織、会社やより大きな「システム」のために行われている。

利己的な遺伝子が、個人を乗り物として利用しているに過ぎないように、です。

生産性が高まるツールが増えていくことと、一人の人間の幸福感を満たすこととは、根本的には何の関係性もない。

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で、もはや人類にはこの加速度的に増殖してしまう生産性や効率性に対して、抗うことができない状況となってしまっている。

ゆえに「はやいところ、行くところまで行ってくれ!」という、半分、いや8割は破壊願望を強く含んだ「加速主義」的な虚無主義が蔓延っているのが現在、ということなんでしょう。

言い換えると、もう既にビジネスの分野においても「原爆」の開発がなされてしまったようなもの。そして、はやくシンギュラリティのようなものが来てしまえ、と誰もが暗に願ってしまっているというようなイメージです。

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だからと言って、逆に振り切って、ブッダや『バガボンド』の宮本武蔵のように、その戦いの螺旋から降りることを目指すこともできない。

それは言葉としてはとても美しいのだけれども、そもそもこの時代にいきている以上、そんなメタファーとしての「山ごもり生活」なんかをすることもできない。あのような決断は、あの時代だからこそできたこと。現在は、誰もが社会と無関係ではいられない。

それは現代において、自らが僧侶だと名乗っているような人たちも、スマホやTwitterを当たり前のように使いこなしているのを見ていれば、よく分かるとおりです。結局、この時代に生まれて生きている以上は、この構造からは逃れられないということですよね。

結果、こうやってみんなで生産性を高め合って、その実は真綿で首を締め合っているような状態、本当に世知辛いなあと思ってしまいます。

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では、そもそもなぜ、そうなってしまうのか。それをここでは考えてみたい。

きっと、これは人間が抱える「欠落」及びその「欠落に対する認識」の問題なんですよね。

心理学者・岸田秀さんの名言「未来とは、逆方向に投影された過去、仮装された過去」だというお話は、以前から何度もこのブログで紹介してきました。

自らの過去への後悔、その「欠落」を埋めるために未来に対してその後悔を逆投影し、ソレに向かってひた走っているわけですよね。

先日もご紹介した村上春樹さんの長編小説『国境の南、太陽の西』の中に出てくる主人公の「僕」の独白の部分とも、キレイに重なる話だなと思います。

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過去への後悔、そこから立ちあらわれる「自己への負い目」があるからこそ、ひとは、より生産性の高い方へと駆り立てられる。

私の欠落が埋まりますように、という願いを必死に込めて。

現代を生きる人間全員が「傷ついた提供者」であるというのも、ソレが理由です。

「私は、過去に一度も提供者側になんかなったことはない」というひとであっても、誰もがその「自由」を享受できる時代である以上、そのような弁明はもう通用しない。

発信する自由は、常にあなたのスマホの中に無料で、何の資格も必要とすることなく、今すぐ与えられている状況が続いている以上は、その負い目は誰もが多かれ少なかれ感じるようになっている。

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先日のブログの内容の繰り返しにはなりますが、昔はそんな「自由」なんてなかったんですよね。

世の中に向かって発信できるのは、限られた一部の人間達だけ。だから、負い目なんて感じる筋合いもなかった。そもそも、その自由は私にはなかったのだから。

でも今は、誰もが平等に、その権利を有してしまっている。そして、そこに挑戦すれば、今の生活以上のものがあったかもしれないと思わされる。

「あのときの私は、あの傷を負わなくてよかったかもしれない」と思えてしまうわけです。

だから、そうやって武器(業務効率改善に資すると叫ばれる、ありとあらゆる新しい道具)をもって立ち上がってしまう。もう決して後悔はしたくないと思って。

だからみんなが一斉に走り出すわけです。

このような過去・現在・未来を俯瞰的に眺めて、メタ認知する私が、世知辛い世界を生き抜くために、冷静に戦略や戦術を考えせようとしてくるわけです。

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近年は、この「メタ認知」という言葉が流行りすぎてしまったせいで、少しでも高いところから、より高次の視点から眺めることが無条件に良しとされてしまっているような気がしています。

同じところをグルグルすることが良いんだと言及するひとであっても、どこかで必ず螺旋階段的な浮遊感を望みがち。

でも、メタじゃなくて、ベタでもいいだろうと僕は強く思ってしまうし、なんだったら「だからこそ下れよ、下に掘れよ」と思ってしまいます。

それが村上春樹作品に描かれる「井戸掘り」や「地下二階」のメタファーにもつながるはず。

「同じ高さはダメ、より高いところにいかなければいけない。」それが間違っているとは言わないけれども、それを無条件に良しとしてしまう世間や、それを強迫観念のように捉えてえしまう自己とは一体何かを疑う目はちゃんと常に持ち合わせておきたい。

つまり、本当に大事なことは、そんな「負い目」としっかり向き合うことなんだろうなと思います。

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そして、哲学者・ハイデガーも、このような「負い目」と向き合う態度を推奨していたそうです。

これは最近、飲茶さんが出版されていた『あした死ぬ幸福の王子――ストーリーで学ぶ「ハイデガー哲学」』という本のなかに書かれてあったような話でもあります。

この本は、これ以上ないくらいにわかりやすくハイデガーの思想について教えてくれます。

ぜひ気になる方は実際に読んでみて欲しい。特に僕が最近頻繁に語ってきたような傷とソレに対するケアの話に悲して興味がある方には、強くオススメしたい。

哲学なんて過去に一度も触れたことがない人であっても、カンタンに読める内容になっています。イメージは、アドラーではなくハイデガー版の『嫌われる勇気』のような書籍です。

で、その傷というのはまさに「欠落感」のような話であって、負い目のようなものに対して、ケアだけじゃなく、ただ「向き合う」態度を示してくれている。

まさにハイデガーの思想というのは、そのようなスタンスを僕らに教えてくれているんだと思いました。

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ただ、一方で、ハイデガーと言えばナチス・ドイツに加担した哲学者でもあります。

その理由はハッキリとはしていないようだけれども、そのことに対して反省や弁解することなく、その生涯を終えたらしいです。

で、ハイデガーの弟子たち、具体的にはハンナ・アーレントやハンス・ヨナスの批判もセットで語られるべきであって、色々と難しいことは言えると思いますが、つまり「ハイデガーはもっと、公共性や複数性、未来性を大事にしたほう良かったよね」ということなんだと思います。

端的に、ものすごくわかりやすくいえば、現在における「SDGsの項目のようなことを大事にしないとね!」と語られているわけです。

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なんだ、やっぱり結局のところ、振り出しに戻ってきてしまったじゃないかと思うかもしれない。

でも、ここで本当に大事なことは「自分が世界の中心であると同時に、世界の一部でもある」ということの自覚のようなものなんだと思います。ちなみにこれは心理学者・中井久夫の言葉です。

言い換えると、今はあまりにも、公共性の声が大きすぎる気がする。

つまり、「お前は世界の中心じゃない、世界の一部に過ぎないんだ」という見方が一般的になりすぎて、悪意なく他人の足を踏んでしまって生まれた傷=悪となっている。

そんな傷を生み出すヤツは、故意や過失関係なく全員が悪者であって、それができた瞬間にその傷は他者からケアされるべきもの、というような、とっても優しい世界になってしまっている。(もちろん皮肉を込めて書いています)

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でも本来は、僕らにはどちらのスタンスも、同程度に大事にする必要があるはずで。

言うなれば、ハイデガーが語るような自らの負い目と向き合うスタンス(先駆的決意性)と、公共性や未来性の両立。

ちなみにここで言う、先駆的決意性とは、自分の死を覚悟した上で、今この瞬間をどう生きるかを自分の意志で決断することを意味します。まわりの人に流されるのではなく、自分の良心に従って生きる勇気を持つこと、です。

その先駆的決意性と、公共性や未来性を両立させるというのは、実践するとなると不可能に近い。

不可能なんだけれども、その引き裂かれるその葛藤のうちに成熟があるのもまた事実。

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最後は、全然気持ち良い結論ではないかもしれないけれど、不可能なことをそれでも実践し続けようとする態度、それが「問い続ける」という過程でもあるんだろうなと思います。

無理に欠落を埋めようとせず、欠落と向き合い、それこそが自らの一部だと理解したうえで、他者と対話し、共に歩んでいくことを諦めない、そんな勇気。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話がなんとか伝わっていたら嬉しいです。