ひとはなぜ他人の人生に介入したがるのでしょうか。

僕が思うその理由は、以下のツイートに記した通りです。

では、このことを受けて私たちはどのように他者と対峙すれば良いのでしょうか。

お互いに協力することが人間である以上、まったく他者に関心を示さないというわけにもいきません。

この点、僕は「相手の人生を、相手以上に信頼すること」が重要なのではないのかなと思っています。

多くのひとは、自分の人生をなかなか信頼できないもの。この先に何か不測の事態が起きるのではないかと、いつも不安に怯えています。

でも、他人の目から冷静に眺めると、むしろそうやって過度に怯えてしまうことで多くのチャンスを逃してしまっているようにも見える。

だからこそ、目の前の相手の人生を相手以上に信頼し、そうやって見守り続けることで、「あなたの人生は信頼に値するものだよ」と相手に伝えるしかないと思うのです。

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そもそも、なぜひとは自分の人生を信頼できなくなってしまうのでしょうか。

思うにそれは、他者のなかに存在する「私に向けられた猜疑心」を敏感に感じ取ってしまう生き物だからなのだと思います。

どれだけ甘い言葉を用いて、オブラートに包まれたメッセージをたくさん受け取ってみても、いま目の前の相手が私のことを信頼していないことは驚くほどすぐに伝わってくる。

それを受けて「やっぱり自分の人生は信頼に値しないものなのだ」という確信を強めてしまう。親や教師からそのような猜疑心を向けられて育ってしまった人たちなら、なおさらのことでしょう。

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一方で、目の前の相手が無条件に信頼してくれていることもダイレクトに伝わってくるもの。

それを感じ取ると、「私には価値があると思えないこの人生に対して、目の前の相手がここまで信頼してくれている。そうであれば、自分の人生は多少なりとも価値があるものなのかもしれない」と思えてくる"可能性"が出てくる。

その結果、少しずつでも目の前の相手の振る舞いが自信の満ちたものに変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。それは誰にもわかりません。

ただし、私の人生に勝手に介入してきて、私が経験してきた出来事に対して、勝手な意味づけをされるよりは、よっぽどマシだと思うのです。

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ひとは、すぐに物語をつくってしまいます。言い換えると、「原因と結果」を勝手に捏造してしまいがち。

相手にとって不幸だと思われるような過去であればあるほど、その出来事からポジティブな側面をなんとか見出して、意味づけをしようとしたがる。

それが相手を励ますことであり、最大限の親切だと誤解してしまっているのです。

でも往々にして、そんなわかりやすい原因と結果なんて最初から存在していない。

だったらありのままに、目の前のひとの人生を信頼するしかないと思うのです。いまどんな不遇な状況にあったとしても、相手に起きていることはすべてベストなタイミングで起きているベストな出来事なのだと信頼するほかない。

実際、その辛く悲しい出来事によって、その人の人生が大きく変化して、あのときが転換点だったという場合も少なくありません。人生すべて、塞翁が馬なのですから。

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少なくとも、僕はそのように他者に振舞ってもらえたら心から嬉しいと感じるはずですし、全力で感謝したいと思える。

だからこそ、自分もそうやって他者に接していきたい。

もちろん、このサロンに参加してくださっているメンバーのみなさん一人ひとりに対しても、そんな気持ちで日々接しているつもりです。

相手の人生を、相手以上に信頼する。簡単なようでなかなか難しいことですが、そのことがお互いに及ぼす影響は計り知れないものだと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。

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