僕らはどうしても、永遠不変の倫理のようなものが存在すると信じてしまいがちです。

でも実際には、どの時代にも共通して貫かれている明確な倫理の基準なんてものはきっと、どこにも存在しないんだろうなあと。

むしろ、現代の社会状況をつぶさに観察していると、そのときの権力構造が変化し、社会が音を立てながら変化をする中で、その状況に合わせた「新しい倫理」が新たに誕生しているように僕には見える。

具体的には、特定の人物や組織が凋落する際に、その存在を叩きやすくするための都合の良い倫理が事後的に作られているようにも感じられます。

以前は、暗黙の了解や普通に許されていたことでさえも、急に許されなくなってくる。

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ということはきっと、未来の社会においても、今の僕たちが目をつぶっている多少の"ヤンチャ”や、誰もが当たり前のように行われていることが、新しい倫理基準によって批判されることもあり得るのだろうなと思います。

つまり、現代ではまったく問題視されていない行為が、30年後ぐらいには必ずキャンセルの対象になる。

これはもう絶対にそうなる。「絶対に」警察の方々には大変申し訳ないけれど、本当に絶対にそうなると思ってしまうぐらいには、これは僕の中では確信に近いことです。

言い換えると、「そりゃあ、当時からそういうことをやっていれば、叩かれても当然だよね」という倫理が、事後的に構築されて、まるでそれが当時から当たり前の倫理だったかのように蔓延ることになるわけです。

それは、本当に残酷ではありつつ、紛れもない事実だと思います。

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では、このような状況において、一体どうすればいいのか?

まず、倫理そのものが流動的であるという前提を、しっかりと受け入れる必要があるよなあと思います。

歴史や社会を振り返れば、一定の価値観が永遠に固定されることはあり得ない。

たとえば、わかりやすいところで言えば、かつて「戦争で人を殺すこと」は当然のように許されていた時代があったわけですよね。

しかし今では、少なくとも表向きには極悪非道な行為だとされている。

とはいえ、戦争そのものは、現在も世界各地で行われているわけで、このように、どんなに確固たる倫理のように見えても、その基準がどのように時代によって変化するかは、誰にも予測できないわけです。

歴史が進むにつれて改善されてきたように思える基準でさえも、また後戻りするかのように、戦争での人殺しが容認される時代だって、またいつ来てもおかしくはない。

つまり「今は良しとされていることが、将来も良しとされるとは限らないし、その逆もまた然り」という認識を持っておくことが、大前提として重要になるのだと思います。

これは、決して悲観的な見方ではなく、むしろ現実を直視する姿勢だと感じています。

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次に、倫理やルールの変化の背景には、多くの場合、その時代の時の権力者や社会の主流となっていく世論の都合があることも、認識する必要があるとも思います。

繰り返すけれど、倫理の変化はしばしば後付けで正当化される。その結果、過去の言動が新しい倫理基準で裁かれることになるわけです。

それは半ば恣意的であることも多くて、もちろんそれは誰かの一存で行われることかもしれないし、社会の変化の中で集合的無意識のようなものが津波のように押し寄せる形になるかもしれない。

でもどちらにせよ、未来の価値観や倫理を完全に予測することはほぼほぼ不可能だからこそ、多くの人が二つの極端な反応を示しがちでもあるわけです。

一つは「将来のリスクを恐れて何も言えない、何もできない」という萎縮。

もう一つは、真逆に振り切って「どうせ叩かれるなら自由にやる」という極端な反応です。でもそれは、どちらの場合も、諸刃の剣でもあるわけですよね。

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だったら、この不確実な社会や未来と、僕らは本当の意味でどう向き合うべきなのか?

いよいよ、このあたりで本気でわからなくなってくる。

この点、どんな時代にも通用しやすい「基本的な倫理原則」のようなものを大切にすることが重要であることは間違いないと思います。

たとえば、「人を不当に傷つけない」とか「意図的に社会的弱者を搾取しない」とか「公正さを重視する」といった原則などは、西洋思想や東洋思想の中でも普遍性が高いとされている気がします。

もちろん、これらの原則やその適用範囲、そしてその対象自体も、時代によって解釈が変わる可能性はあるわけです。

昔は、あたりまえのように女性や子供、部落差別や、有色人種差別があったように、これからは、動植物やAIの人格問題なども、新しい倫理の対象として加わる可能性がある。

それでも、大枠としては「そのタイミングにおける人(らしきもの)を尊重する」という姿勢を持つことは、未来においても比較的受け入れられやすいはずです。

倫理の歴史や哲学の歴史を学ぶ意味なんかも、まさにこのあたりにありそうですよね。

過去の思想家たちが、同じように倫理の変化に直面し、それとどう向き合ってきたのかを知ることは、現代を生きる僕らにとっても大きな示唆を与えてくれるはずなんです。

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で、それらを踏まえつつ、時代による倫理の変化をいち早く理解し、自分の立ち位置を問い直す柔軟性も求められるということなんでしょうね。

具体的には、社会の動きや他者の声に常に耳を傾けることが大切で、批判されたときに一方的に反発するのではなく、「なぜ批判されているのか?」を冷静に分析する姿勢を持つことも重要なのだと思います。

でも、それでもやっぱり、避けられない。しつこいようだけれど、本当に避けられない。

どれほど注意深く行動をしても、未来の価値観や倫理基準を完全に予想し、自分を守り切ることは不可能なわけです。

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だからこそ、今このタイミングで僕が思うのは、「予測不能な将来の価値観に合わせる」よりも、「現時点で自分が正しいと思える原則や態度を、誠実に貫く」ことが、何よりも結果的に最善の選択になるんだろうなということです。

今日の一番の主張も、まさにここにあります。

言い換えれば「倫理は外から与えられるものではなく、自分自身の中で考え抜いて見出すもの」だということです。

自分が存在している時代や社会の「当たり前」に無批判に従わずに、常に一歩引いて「これは本当に、自分にとっての倫理的な基準において、正しいことなのか?」を問い続けること。

その姿勢が、自分の行為に対して最後まで責任を持つ覚悟とも直結すると思うのです。

つまり、世間や社会からその時代の倫理で叩かれること自体が「悪」なのではなく、自分の行動に責任を持てるかどうかこそが、カギとなるんだろうなあと。

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未来で批判されるならされたで、それを受け入れる覚悟を持てるかどうか。

一方で、それだけに固執してしまうと、先述したように「どうせ叩かれるなら何もかも自由にやる」といった極端なスタンスにもなりかねないので、だからこそ、この覚悟を持つことと同じくらい重要なのが「他者との対話を積み重ねること」だと思います。

ここも今日同時に一番強調したいポイントのひとつです。

倫理は「関係性」の中で初めて意味を持つ。自分しかこの世に存在しなければ、倫理なんて問題は発生し得ないわけだから。

だとしたら、他者がいて初めて問うことに値するのが、倫理なわけですよね。

それゆえに、ひとりで孤立せず、多様な視点を取り入れることで自分の考えを深めることも大切であるはずで。

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ここまでの話をまとめると「確固たる信念と、開かれた対話」このある種矛盾するようなその両方が同時に必要だということだと思います。(また「どっちも大事」の話になってしまいましたね)

なにはともあれ、普遍的な倫理のようなものが外側に存在すると思い込み、それに従うことで評価されることばかりを重視していると、それが一番足元をすくわれてしまう。ナチス・ドイツのアイヒマンのように。

今、僕らは現実社会の中においても、それをハッキリと目の当たりにしている。

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「問い続ける姿勢」を忘れずに、自分の信じる倫理や価値観を絶対視せずに、他者と開かれた対話をし続ける。それが、不確実な未来を生き抜くために、ひとりひとりが持ち合わせておくべき心構えだと思います。

「じゃあ、本当に自分にとって大切にしたい倫理とは何か」そんなことを考えるときに、ひとりひとりが問い続けられる場として、このWasei Salonが機能してくれたら本当に嬉しいですし、そのような場になるように引き続き、精進していきたいと思います。

いつもこのブログが、読んでくださった方々にとって今日のお話が、少しでも参考になっていれば幸いです。