最近話題になっている宇野常寛さんの新刊『庭の話』を読み終えました。

Youtubeのビジネスメディア「PIVOT」にも出演されていて、そちらの動画の中でも本書の要約が語られてあって非常にわかりやすかったので、本を読む時間がないという方は、ぜひ動画の方をご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=WLmoWio88UE 

素晴らしい現代批評で、とてもおもしろい内容でした。

で、この本を読み終えたあと、自分が考えたことを今日は書いてみたいなあと思います。

直接的には関係ないけれど、とはいえ、なぜそんなことを考えたのかと言えば、『庭の話』が前提になるお話です。

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さて、この『庭の話』の中では、ハンナ・アーレントが説く「労働(Labor)、制作(Work)、行為(Action)」の3つの概念のうち、「制作」の概念に重きを置くべきだという話が語られてありました。

「労働や行為とは異なり、『制作』は孤独にできることであり、「ひとりあそび」を覚えたとき人間は孤独であるからこそ、開く扉を通じて世界に関与できるのだ」と。

このWasei Salon自体も、ハンナ・アーレントの『人間の条件』に掲げられているこの3つの概念を参考にしながら「はたらく」テーマに掲げているので、特にこのあたりのお話は、非常に共感しながら読みました。

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そして、最近の提案って、こういうタイプのものが本当に増えたよなあと思います。

「半身で働く」なんかもそう。労働(ブラック企業)や行為(政治活動)に対して、コミットしすぎるな、と。

ただ、僕はそれでもやっぱり、大事なのは「自分以外の他者に対して、目を向けていくこと」だと思うのです。

逆に、自分のことだけを考えると、そのような提案になるに決まっているとも思うんですよね。

だって、自己が可能な範囲で幸福を完結させようとするんだから。

ブラック労働(セルフ含む)において搾取されず、かといって政治に参加して「活動(家)」に流されてSNSの奴隷になるのではなく、そんな社会や世間に右往左往させられずに、趣味に没頭できる自分になりましょうね、と。

でもそれは、自らが選んだ道のようでいて、結局それも世の中のありとあらゆることに期待をしつつも、全てに裏切られて絶望をし「アレもダメ、コレもダメ」というその帰結として、「制作活動」に邁進しろ、とも聞こえなくもない。

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言い換えると、今の暗澹たる社会状況を見れば「会社や仕事にフルベッドなんかするな!」が確かに一番正しい助言となる。

「半身で働き、オタク活動に精を出して、プラモデルを作ることなど、趣味に対して至高の喜びを感じろ」というのは、本当にそのとおりなんです。ぐうの音も出ないほどの正論。

そこでの孤独の喜びを享受できる人間にこそ、世界に関与できるという話もまさしく、です。

でも、それだと結局またドツボにハマるというか、そうやって「どうすれば自分が満足できるか?」という思考それ自体が、僕は今のどん詰まりの要因だと思うんですよね。

ジブリの鈴木敏夫さんの「自分のことばかり考えているから、鬱になる」というあの話にも通じていくものがある。

また、そのような「他者の力を借りずに、孤独の中で自己完結できるようになれ」も、ある種の自己責任論のひとつでもあるように思います。

オタクのひとにはそれができるかもしれないけれど、オタクじゃないひとにとってはむずかしい。

「それは訓練で可能だ」と言い放つこと自体が、グローバルエリートの「英語を勉強しろ、海外の大学院を卒業しろ」とほとんど変わらない論理に思えてしまう。

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僕はそうじゃなくて、先日も養老孟司さんの『江戸の智恵』の本のご紹介したときにも書いたことだけれど、もっと「自分以外に目を向けて、自分以外の幸福を優先的に考えるのはいかがですか」ということをずっと言いたいんですよね。

だから、本当に大事なことは「いかに自らを満足させるか」という話に終始し過ぎないことのほうが大事な気がしています。

もっと端的に言えば「どうやって自分が利得を得て、幸福になれるのかばかりを考えるな」ということなんです。

そうじゃなくて、その逆の視点、「どうすれば自分自身が、他者の幸福を満たせる存在になれるのか」「そのような行動に出たいと自然と思えるようになるのか、その仕組とは?」ということを真剣に考えたほうがいいんだろうなあと思っています。

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なぜなら、以前も書きましたが、そうやって考えてひとりひとりが行動をし、それぞれの納得感があれば、結果的に「保険」と同様の効果がそこに立ちあらわれてくるわけですから。

そうすれば時や順番がまわって来れば、勝手に自らも同様にその共同体からの受益者になれる。でも誰もが先に受け取りたいと思ったら、足りなくなる。それが資源や椅子の奪い合いに発展してしまう。だったら自己完結するしかない。

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「とはいえ、それができないから困っているんじゃないか!」という批判が聞こえてきそうですし、実際に僕もそう思います。

結局、相手も同じ人間なのに「どうして俺がこいつなんかを幸せにしなきゃいけないんだ!」って思うということなんでしょうね。

同じ人間だから平等概念やフラット、あとは単純にズルいという嫉妬心や猜疑心などが生まれやすい。端的に言って、相手のことは信じられない、となってしまう。

だからこそ、昔の人々はわかりやすく、神(宗教)概念を持ち出したんだと思うんですよね。人間じゃないんだ、我々は神に帰依するんだと。

でも、そうすることで結果的に「相手を先に満足させたい」という思考回路が、人間の中に自然発生的に生まれてきてた。

たとえば、仏教において、あたかも自主自立しているようなお坊さんたちがいるように見えるけれど、彼らだって仏教教団や阿弥陀仏に帰依している。まさに、南無阿弥陀仏、なわけですからね。

昔のひとたちは、本当に賢いなあと思わされます。

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でも、それが不可能になっていったのが、戦後日本でもあるわけです。

だから、今度はそれが「大企業」への貢献の話に移り変えた。つまり、自分たちはあくまで「法人」に対して帰依しているんだ、と。

それは神へ帰依しているのと同様に、結果的に「相手を先に満足させたい」という状態が自然発生的に生まれてくる状態をつくり出す装置として機能した。

法人の中での「自由な共産主義体制」のようなものが、その場に自然と立ちあらわれてくる。

そして、それが2025年の今日に至るまで、ギリギリ繋ぎ止めてくれていたわけですよね。でも、去年辺りから、それが音を立てるようにして崩れ始めている。

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ここまでの話をまとめると、宗教が完全に没落し、神概念も神秘主義的な話として陰謀論と同類、科学的ではないと遠ざけられてしまった。

その上で最後の頼みの綱だった、地方自治体や国家行政ような元祖共同体や、レガシーな大企業ほど、見え透いた悪事を働くようになっていったから、誰もそれらを信じられなくなってしまった。

だからこそ、その反動として、より個人の幸福、つまりオタク的な「制作」に向かい、「孤独を愛せ」という話になるのだろうけれど、それを突き詰めても、より一層孤立や分断が深まるだけだと僕は思います。

また、だからこそ現代で起きていることは、そのレガシー企業やオールドメディアをぶっ壊せ!という合図で人々が再び「怒り」でつながろうとするか、あまりにもそれが野蛮で幼稚に見えるから、家やローカルに引きこもって自らの趣味に没頭するか、その2択みたいになってしまっている。

そうじゃない第3の共同体の道が必要なんだろうなあって。

言い換えると、信仰か、お金か、消費か(これは『庭の話』で書かれていたほぼ日の話)、役割負担でしか繋がれなかった共同体から、それ以外の「自分ではなく、他者を満足させるために、それを循環させるためにはどうすればいいのか?」という態度を持ち合わせることができるための共同体の復興が、急務なのだろうなあと。

そして、それがまさに養老孟司さんの言うところの「イエ」ということなんだろうと思う。

それがどうやったら立ち現われて来てくれるんだろうなあとということを、僕は最近ずっと考えています。

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で、その一つの答えが「まず相手の話を聞く」「先に相手の想いを受け取る」という文化であり、そこから生まれてくる「循環」を大事にすることなんだろうなあと感じています。

あとはちゃんとそこに小さな現実を立ち上げて、その証拠の積み重ねることと、それがグルグルと循環して、血が巡るようにして息づいていることなんだろうなあと。

それは、決して剥製(つまり理論や机上の空論だけ)であってはダメで、生きている共同体として存在し続けていることがきっと何よりも価値がある。

もちろん繰り返しになりますが、ひとりひとりがバラバラの「制作」に没頭し、孤独を愛しながらも孤立をせずに、確かにつながっていると思えることが最重要なのでしょうね。

過去にも何度も書いてきましたが、このあたりの「お先にどうぞ」や「群れずに、群れたい」というニュアンスがうまく伝わっていたら嬉しいです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。