最近、気になるタイトルの記事を見つけて、「おっ、このテーマについて書いてくれているのか!」と思って、嬉しくなって飛びつくようにリンクを開いてみると、

そこには生成AIで書かれた文章がずらっと並んでいるだけという現象が、本当に増えたなと思います。

そして、その瞬間に、なんとも言えない気持ちになるなあと。

たぶん書いた本人にとっては、最大限のおもてなしのつもりだと思うんですよね。

そして、その気持ちは、ほんとうによくわかる。

僕自身も日々かなりAIを使っていますし、AIに助けられていることは数えきれないほどあるので、これは「AIを使うな」という話ではまったくないんです。

ただ、その文章の3分の1、いや、10分の1の分量でいいから、その人の手で、その人の言葉で書いてほしかったなと思ってしまう。

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僕が読みたかったのは、そのテーマについての網羅的な説明ではなく、その人が、どこに引っかかったのかだし、どこで驚き、どこで腹が立ったのか。そういう生の感情のほう。

その結果、どこで、自分の過去の経験とつながったのかというそういう生々しい痕跡を読みたかったのだと思います。

言い換えると、情報が欲しかったわけじゃない。情報が欲しければ最初からAIに直接聞きます。

にも関わらず、AIで整えられた文章は、その痕跡までをすべてキレイに消し去ってしまうわけですよね。

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もちろん、AIを使っていても、本人の痕跡がちゃんと残っている文章はたくさんあります。

でも大抵の場合、「あなたのところまでわざわざ読みに来たのに、あなたの言葉が一切出てこなかった」そんなふうに感じてしまう。

そんな完璧なおもてなしよりも、少し不器用でも構わないから、もっと本音の文章が読みたかったと思ってしまうのです。

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じゃあ、なぜ人は、自分の言葉を出す前にAIでキレイに整えてしまうのか。

これはたぶん、怠惰の話ではないのだと思います。

むしろ、怖くて不安だから、なのだと思うんですよね。

他人から誤解されたくないし、炎上もしたくない。できることなら、ちゃんとした人だと思われたい。そういう気持ちが少しずつ重なって、自分の言葉のままでは拙くて不安だということなのだと思います。

で、そう考えると、ここには見事に現代的な「悪循環」が存在しているなあと思うのです。

他者からの目が、怖くてAIで整えてしまう。AIで整えるから、文章から生々しさが消えてしまう。そして、本人の姿が消えるから、読者との共同体感覚も育たなくなってしまう。

すると、ますます他者や周囲のまなざしが怖くなって、さらにAIで整えてしまうジレンマです。

これは、AIが悪いという話ではなくて、AIが現代のSNS戦争の「防具」みたいになってしまっているという話なんですよね。

自分の生の言葉に含まれる「危うさ」や「過剰さ」を包み隠すうえで、AIがあまりにも便利すぎてしまうがゆえに起きていること。

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で、この感覚について考えていたときに、先日見たゲンロンカフェの動画の中で、東浩紀さんが「共同体」について話されていたことを思い出しました。

そこで語られていたのは「共同体感覚がないと、人は批判もできないし、言論もつくれない」ということでした。

なぜなら、「ここまで言っても大丈夫」という安心感がないから。これはほんとうにそうだなあと強く膝を打ちました。

批判というのは、一見すると、相手を否定する行為に見える。

でも、本来の批判は、「あなたと私は、この場に共にいる」という前提があってはじめて成立するものなのだと思います。

間違ったことを言っても、ちゃんと言い直せる。うまく言えなくても、すぐには断罪されない。そういう感覚や関係性があって、はじめて人は自分の生の意見を場に出せる。

逆に言えば、その感覚がない空間では、人は自分の言葉を出せなくなってしまう。だから、AIという防具を使って、あらかじめコーティングしてキレイに整えるしかなくなるわけです。

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この点、共同体という言葉を聞くと、多くの人がすぐに古い村社会や同調圧力、カルト性といった負のイメージを思い浮かべてしまうはずです。

だから、「共同体なんて、怖いもの」として遠ざけたくなる。その気持ちもとてもよくわかります。

でも、共同体感覚が失われた先にあるのは、自由な個人の楽園ではなかったということが、今まさに明らかになったわけですよね。

そこに広がっていたのは、文脈を共有できない人たちが、SNS上で互いに怯え合い、監視し合い、断罪し合うようなディストピアだった、と。

つまり、本当は共同体とは、みんなが同じ意見になる場所のことではないんですよね。

むしろ、違う意見を語っても、すぐには壊れない場所のことだし、そういう場所があるからこそ、人ははじめて自分の言葉を場に出せたのだと思います。

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この問題は、若い人たちにとっては、もっと切実なのではないかと思っています。

本来、学校や大学は間違える練習の場だったはず。

でも、今の学校や大学は内申点や就職活動における評価を重視するあまり、いくつもの監視装置が重なり合った場所になってしまっている。

その結果として、学校や大学が「自由に間違える場所」ではなくなってきている。

しかも、これは生徒側だけの問題ではなく、教師や教授の側もまた見事に監視されている。

教える側がもっと本音を出し合う場を作りたくても、あとから問題になって親や教育委員会からハラスメントだと言われるかもしれない。だから、教師だって安全なことしか言わなくなる。

生徒も教師も、お互いに距離を取り合い、安全な言葉だけを交換してしまう。

そうやって教室が、間違える場所ではなく、まるでお互いに音声の録音ボタンを押し合っているような場所になってしまっているわけです。

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つまり、これは、生徒が悪いとか教師が悪いとか、そういう話ではないわけです。

むしろ、みんなちゃんと心から配慮している。それゆえに起きてしまっている、合成の誤謬みたいな話。

そんな不安や恐れがあるタイミングで、生成AIが世にあらわれた。AIでコーティングすれば、もう恐れる必要もなくなる。

だとすれば、教師も生徒も、そして会社における上司も部下も、それに飛びつかないわけがないですよね。

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ここで思うのは、東さんがゲンロンカフェでやろうとしていることとも、この話は深くつながっているのだろう、ということです。

東さんがつくろうとしている共同体は、たぶん、昔ながらの村社会に戻ることではない。

みんなが同じ価値観を持ち、同じ意見を言って、異物を排除するような共同体ではない。

むしろ、そういう共同体の危うさを十分にわかったうえで、それでもなお、人が安心してものを言える場所を現代に再構築しようとしているのだと思います。

完全に閉じた場所だと腐ってしまう。でも、完全に開かれた場所は燃えてしまう。だから必要なのは、そのあいだの場所なのだと思います。

ゲンロンカフェという空間は、いつもその実験をしているように僕には見えます。

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あと、ここまで考えてきて、ようやく「ああ、これは『感情ミュート社会』の文章版なのかもしれないな」とも腑に落ちました。

いまの社会では、自分の感情を出すことそのものが、どんどんむずかしくなっている。

怒りや不満だけではなく、喜びや楽しさですら、出しすぎると完全に浮いてしまう。だから人は、自分の感情をあえてミュートして表に出さなくなっているとよく語られます。

でも、それは感情がなくなったわけではないんですよね。

むしろ、内側にはフツフツと昔と変わらずに感情はあるのだけれども、それを外に出す前に、自分でミュートしてしまう。

生成AIで整えられた文章は、この感情ミュート社会の中で生まれた、ひとつの現代病的な症状なのだと思います。

それを見たときに、たぶん、僕はものすごく深い絶望感や虚無感を感じてしまうということなんだろうなあと。

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ただ、ここで誤解されたくないのは、感情を爆発させればいい、という話ではない、ということです。

「これが自分の本音だから」と語り、相手を傷つけていいわけでもない。必要なのは、感情を爆発させる場所ではなくて、感情を少しずつ出しても大丈夫な場所だと互いに信頼し合えること。

ミュートを一旦解除しても大丈夫な場所なんだと思えること。

具体的には、「あ、いまちょっと言い過ぎたかも」「でも、その違和感はわかる」とか、「足は確かに踏まれたけれど、そこに悪意がなかったことは理解できるから大丈夫、続けて」と言い合える、そんな関係性。

そういうやりとりが、ゆっくりと往復できる場所が、本当の意味での共同体の価値なのだと思います。

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Wasei Salonでは、それができていると胸を張って言えるわけではないなと思っています。

むしろ僕自身、コミュニティの運営を実際に引き受けながら、その実現が本当にむずかしいなあと日々悩み続けています。

どうやったらそんな場がつくれるのか、コミュニティ運営とはたぶん、その絶え間ない調整そのものだということなんでしょうね。一生理想にはたどりつけないのかもしれない。

でも、そういう場所がないと、人はドンドン萎縮して自分の言葉や感情をを出せなくなっていく。そして、その穴をAIが高速に埋めていってしまう。

だから、問い続けて、追い求め続けるほかないと腹をくくっています。

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AIがどれだけ言葉を整えてくれるようになっても、人間に必要なのは、整った言葉だけではない。

むしろ、これからますます大事になっていくのは、整う前の言葉のほうなのだと思います。

生成AIで書かれた文章にがっかりするのは、AIが悪いからではなくて、その文章の奥に、本来存在したはずだった「共同体の不在」を感じ取ってしまうから。

つまり、個人の問題ではなく、世界への信頼の問題です。

そう思うと、冒頭で書いたガッカリ感は、ただの文章への不満ではなくなって、いまの社会そのものへの違和感のような気がしてくるのです。

AIを使って、感情を包んだり、ミュートしなくてもいい場所を、これからもう一度丁寧につくっていきたい。

AI時代の共同体運営に求められる仕事は、たぶんそのあたりにあるのだろうなあと、いまは漠然と思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。