Wasei Salonの中で、ここ数ヶ月、有志の方々で「お金の読書会」を続けています。
毎月一冊ずつ、お金にまつわる本を読んできて、メンバーのみんなで感想を語り合うという会で、これがやってみると本当におもしろいなと。
というのも、お金の本は、何冊か続けて読んでみると、だいたい同じことが書いてあるんですよね。
「支出は収入より少なくしましょう、決まった金額を毎月淡々とインデックスファンドに投資しましょう、相場が下がっても慌てて売らずに、長期で持ち続けましょう」と。
もちろん、細かい差異はあります。でも本当に、ほとんどの本がこの話が中心です。
で、たぶん、これは正しいのだと思うのです。
何冊も読めば読むほど、「ああ、やっぱりそういうことなんだろうな」と思わされる。
むしろ、ここまで全ての本で同じことを言われ続けると、もう疑いようがない。さすがに「これはもう原理原則なんだな」と思えてくるわけです。
そして今年に入ってからの株式相場だけを見ても、この行動原理は大正解だったことが証明された。
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ただ、だからこそずっと引っかかっていることがあって、それは、こんなにも正しい話なのに、その正しさだけで生きようとする人のことを、僕らはどこかで「つまらない人」のように見てしまう、その感覚は一体なんなのだろう、ということです。
別に、FIREを目指す人たちを批判したいわけではまったくない。
むしろその逆で、FIREを目指す人たちは、ある意味で圧倒的に正しいことをしているのだと思っています。
誰かに従属しないためにも、まずは経済的な基盤をつくる。その考え方自体は、本当にまっとうな感覚だと思うのです。
でも、それでもなお、どこかで「それだけでいいんだっけ…?」と思ってしまう自分がいる。そして、この感覚のほうに、僕は今とっても興味があるんですよね。
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最近、とあることをきっかけに、原田ひ香さんの小説を続けて10冊以上、立て続けに読んでいます。
原田さんは、100万部超えのベストセラー『三千円の使いかた』を筆頭に、ずっと「お金と人間」のことを書き続けている作家だと思うのですが、なぜ人間は、お金の正解がわかっていてもその通りに生きられないのか、なぜ貯めたほうがいいとわかっているのに使ってしまうのか、そういう問いを、淡々と物語に織り込んでいく。
しかも原田さんは、それを断罪しないんですよね。
「だから人間は愚かだ」とは決して描かない。
むしろその愚かさの中に、人間のどうしようもなさや、その人なりの物語を見出している。そこが、原田ひ香作品を読むことのおもしろさだなと思っています。
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そして、今度、Wasei Salonでも読書会をやりたいなと思っている原田ひ香さんの『古本食堂』にも、FIREを目指している30代の青年が出てきます。
https://wasei.salon/events/0395ea38e3ce
その青年は、古本好きの女子大生や中年女性から、どこか「つまらない人間」のように見られてしまいます。「きっとこういうマネー本ばかり読んでいるんでしょ」みたいな扱いをされてしまうわけです。
その描写を読んだときに、僕は本当にそのとおりだなあと思いながら、同時にかなり引っかかった。
なぜなら、その青年はたぶん正しいんですよね。少なくともお金の本に書かれている原則に従っているという意味では、かなり正しい。
それなのに、物語の中ではどこかつまらない人間として描かれてしまう。いや、正確に言えば、周囲の人たちが彼をつまらない人として見てしまう。
これって一体なんなのだろう、と思うわけです。
お金に最適化している人間を見るときに、僕らの中に立ち上がる、この「なんだかつまらないひとだな」という感覚。
これは本当に相手がつまらないからなのか、それとも僕らの側に、お金に最適化されることへの本能的な抵抗があるのか。
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この点、僕らは、正しく生きたいわけです。でも、正しさだけで生きたいわけではない。安定したいけれど、同時に1回きりの人生なんだから冒険もしたい。
そういう矛盾した感情は、人生にはたくさんあるわけです。そして、もしかすると、そういう不合理さの中にしか、生まれてこないものもある。
最近読んだ『満足できない脳』という本の中に、人間の脳はそもそも「満足できない」ようにできている、という話がありました。
遠くに行けば、もっとたくさんの木の実があるかもしれない。もちろん、本当にそこに木の実があるかはわからないし、途中で危険な動物に襲われるかもしれない。でも、それでも人間は遠くに行こうとしてしまうんだ、と。
そういう不合理さがあったからこそ、人類は生き延びてきたのではないか、という話が書かれていました。
そしてそれに喜びを感じるように脳が進化してきたのが、今の人類なんだ、と。
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僕は、この話を読んで、ものすごく腑に落ちたんですよね。人間は、そもそもギャンブルをしてしまう生き物なのだと思います。
ここで言うギャンブルというのは、もちろんパチンコや競馬の話だけではなくて、もっと広い意味での「賭け」や「リスク」のことです。
そして、その賭けの中にしか生まれないものがある。
だからこそ、完全に正しいお金の使い方だけをして生きることに、僕らはどこか息苦しさを覚えるのだと思うんですよね。
それはただの怠惰でもないし、ただの浪費癖でもない。
もちろん危うさもあるから、だからこそお金について学ぶ必要があるわけだけれども、その不合理さを全部「悪いもの」として切り捨ててしまっていいのかと言えば、僕はそうは思えない。
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これからの時代は、ますます「正しいお金との付き合い方」が見えやすくなっていくはずです。
家計簿アプリを使えば、毎月の支出は勝手に可視化されて、そこにAIが接続される。すべてAI通りに行動すれば、お金の問題で悩むことも一気に減るはず。
それは間違いなく便利なんですよね。でも、なんだか少し怖くもある。なぜなら、僕らはますます「正しい人生」から外れにくくなってしまうからです。
Apple WatchとAIが連動し、自分の身体の健康の最適解を常に教えてくれるようなイメージ。
健康で、合理的で、破綻しにくい人生、それはたしかに望ましいかもしれない。でも、その人生は本当に自由なのだろうか、と問い直してみたくなる。
ここが本当にすごく難しいところだなあと毎回思います。
なぜなら、僕らは別に不自由になりたいわけではないからなんですよね。
お金に困りたいわけではないし、老後に不安を抱え続けたいわけでもない。だから、お金を学ぶこと自体は必要不可欠です。
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特に今みたいなインフレ局面では、周囲の空気が一気に変わりがち。
これまで投資に興味がなかったような人々も、投資に対して興味を抱くようになる。そのときに、資本主義に魂を売らずに済むために、怪しい儲け話に飛びつかないために、お金のリテラシーを高める必要がある。
ただ、ここで大事なのは、お金を学ぶその目的だと思っています。
お金を学ぶのは、お金に最適化された人生を生きるためではなくて、お金に支配されないために学ぶ。
そして、お金に支配されない状態をつくったうえで、もう一度、自分は何に賭けたいのかを考えること。この順番が、たぶんものすごく大事なのだろうと思います。
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投資をすることも、家を買うことも、旅に出ることも、仕事を変えることも全部人生のリスクの話なんですよね。
そして僕自身は、決してリスクを取るのが得意な人間ではない。
むしろ、かなり怖がりなほうだと思っています。だからこそ、寅さんのような人間に惹かれてしまうとも思います。
周囲から見ると危なっかしく見えるけれど、それでも自分の身体ひとつで何かに賭けている人、そういう人を見ると、僕はやっぱり全力で応援したくなる。
たぶん僕は、自分自身がそこまで大胆にリスクを取れないからこそ、そういう人を支えたいのだと思っています。
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でも、これは決して「リスクを取る人が偉い」という話ではないんですよね。そこは本当に間違えたくないなと思っています。
リスクを取れる人もいれば、取れない人もいる。今は取らないほうがいい人もいる。むしろ、リスクを取らないという判断にも、ちゃんと敬意が払われるほうがいいと思っています。
人にはそれぞれのタイミングがあって、背負っているものも違うし、家族構成も健康状態も資産状況も、過去の経験なんかも全部違うわけですから。
だから、外側から「もっとリスクを取れ」と煽ることには、どうしても違和感があるんですよね。
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リスクを取らせること自体、意外と簡単にできてしまいます。
開業セミナーでも、投資セミナーでも、うまい言葉を並べれば、人をバンジージャンプの台に立たせることはものすごくカンタンできてしまう。
でも、それは本当にその人の選び取ったリスクなのだろうか、と思うのです。
その人が、自分の身体で、自分の文脈で、ちゃんと引き受けたリスクなのだろうか。そこをスッ飛ばしてしまうと、リスクは簡単に他人事になってしまう。
そして、失敗したときだけ「自己責任」と言われる。それは、あまりにも乱暴だと思うのです。
リスクというのは、個人の根性や勇気だけで背負うものではないと、僕は思っています。
勇気は「出す」ものというよりも、誰かから「もらう」ものという記事を先日書きましたが、先に進んだ人の姿を見て、少しだけ自分も進んでみようと思える。失敗しても完全に孤立しないと思えるからこそ、挑戦できる。
そういう関係性の中でしか、生まれてこない本当のリスクの取り方があると思うんですよね。
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そして、だからこそ、Wasei Salonのようなコミュニティには意味があるのだと思います。
リスクを取る人がいて、それを見守る人がいて、必要なときに支える人がいて、その姿を見た別の人のリスク感覚が、少しだけ変わっていく。
そういう循環が淡々と発生している場所を僕はつくりたい。
そして、ここまで考えて来てやっと、最初の問いに戻ってこられると思っています。
それは、お金に最適化された人生がつまらなく見えるのは、その人が間違っているからではない。ただ、その人生からは、こういう関係性の循環がどうしても見えにくいから、なのだと思います。
自分ひとりで、人生を解いている人は、ものすごく賢く見える。でも、そこには勇気の循環がまったく存在していない。
たぶん、僕らがほんとうに惹かれてしまうのは、その勇気の循環のほうなんですよね。少なくとも僕はそこにこそ、人間の幸福が宿っているなあと思います。そしてそこにこそ共同体の価値がある。
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今回のお金の読書会の中でも、それを強く感じる瞬間が何度もありました。
お金の話は、ひとりで抱えると途端に重たくなりがち。でも、本を一冊挟んで、みんなで話すと、少しだけ風通しがよくなっていく。
それは、答えが出るからではないんです。むしろ、答えなんて簡単には出ないことを腹落ちする形で知れるから。
お金の読書会をやってきて本当によかったなと思うのは、まさにそんなときです。最近は、これがいちばんの収穫だなと感じています。
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お金の正解は、明確にある。少なくとも、かなり確かな「原理原則」はある。
それを知らずに現代社会を生きるのは、やっぱりかなり危ういなと思います。鴨が葱を背負って、なおかつ丸腰で夜道を歩いているのと変わらない。
でも、お金の正解だけで人生を組み立てようとすると、今度は人生そのものがつまらなくなってしまう。
お金に支配されないためにこそ、お金を学びたい。そのうえで、お金に最適化されすぎないように、自分の不合理さや冒険心や物語も手放さないでいたい。
お金の読書会を続けながら、僕が有志のみなさんと一緒に本当に考えてみたかったのは、きっとそういうことなのだと思っています。
まさに「裏の裏」を取りに行くような感覚です。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2026/06/01 14:50
正しいお金の話が、なぜこんなにもつまらなく聞こえるのか。
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