昨夜、Wasei Salonの中で『思い出のマーニー』の読書会が開催されました。

https://wasei.salon/events/03678eaf4f60

その中で、参加者されていたヒロさんが、主人公のアンナについて「ちゃんとふてくされているから良い」というようなことを語ってくれて、この言葉が、読書会が終わったあとも、ずっと頭の中に残り続けています。

映画版の『思い出のマーニー』を観たことがあるひとであれば、ご存じだと思うのですが、アンナはたしかに最初からずっと機嫌が悪い。

大人を信用していないし、世界に対してもどこか斜に構えている。自分の置かれた状況にまったく納得していないし、周囲から差し出されるやさしさにも、素直には反応しません。

でも、ヒロさんに言われて、そのふてくされている感じがすごくいいなと思ったんですよね。

単に「性格が悪い」とか「わがまま」とか、そういうことではなくて、アンナはちゃんと世界に対して正しくふてくされている。

それっていうのは、まだ世界に対してきちんと期待しているということでもあるのかもしれないなと、聞いていて思ったのです。

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もし、完全に世界を諦めてしまった人間なら、もうふてくされることすらできない。

「本当はこうじゃないはずなのに」と思うからこそ拗ねるし、「どうして私だけ」と思うから、斜に構えるわけですよね。

「こんな世界なんて」と思いながらも、その世界から完全には降りられないからこそ、ひとはちゃんと不機嫌になるわけです。

アンナのふてくされた態度には、そういう世界への期待と絶望がないまぜになった切実さやある種の誠実さがあるなと感じます。

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そしてその話を聞きながら、ふと思ったのは、ジブリのヒロインって、だいたいそういうパターンが多いなと。

『千と千尋』の千尋も、最初はかなりふてくされている。

両親に連れられて車に乗っている時点で、なぜかもうかなり機嫌が悪いところから物語は始まるわけです。新しい土地に引っ越すことに対してまったく納得していないし、親に対しても投げやりな態度を示す。

『魔女の宅急便』のキキなんかもそうですよね。

キキは、一見すると明るく前向きな少女に見えるけれど、すぐに拗ねて、ふてくされる。実家の退屈し、自分の力が都会(社会)では通用しないことに落ち込み、うまくいかない現実に対して、ちゃんと不機嫌になる。

『もののけ姫』のサンに至っては、もっとわかりやすいはず。

彼女は人間社会そのものに対して、ものすごく素直に怒っている。人間に対して、そして文明世界に対して、最初から激しくふてくされている存在として、描かれているわけです。

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そう考えると、ジブリのヒロインたちは、最初から「機嫌が良く感じのいい、前向きな女の子」としてはまったく描かれていない。

むしろ、こちら側の世界、つまり「表の社会」そのものにうまく馴染めていない少女たちばかりなんだと思います。

そして、だからこそ、彼女たちは「あちら側」へと向かうわけです。

千尋は、湯屋へ行く。キキは、知らない街へ行き、さらにウルスラに出会う森に迷い込む。サンは、もとから人間と森のあいだにいるし、アンナは、湿っ地屋敷でマーニーに出会うわけですよね。

ふてくされている人間が、偶然あちら側へ行き、そこで働いたり、他者と出会ったり、傷ついたりして、誰かの物語も同時に見聞きしながら、少しずつ変わって、こちら側へ戻ってくる。

ジブリの物語は、いつもそういう構造にあるんだと気付きました。

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ただ、ここでひとつ引っかかることがある。

ジブリのヒロインたちは、なぜわざわざ「あちら側」へ行かなければならなかったんだろうかという疑問です。

別の言い方をするなら、なぜ彼女たちは、こちら側でふてくされたまま、こちら側で変わっていくことができなかったんだろうか、という問いです。

たぶん、その答えはわりとシンプルで、こちら側、つまり昼の世界、表の社会に、ふてくされたままでいられる場所が存在しなかったからなんだと思います。

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そして、これはたぶん、現代のほうがより深刻になっている問題なんじゃないかと僕は思う。

昨日も書きましたが、僕らが生きている2026年現在の日本、その表の世界は感情を出さない人に最適化されすぎてしまっている。


学校も、会社も、公共空間も、どこかで「機嫌よく振る舞える人」を前提にしているわけですよね。

怒りや拗ね、他者や社会への不信感は、できるだけ自己責任で処理してからここに来てください、という無言の圧力がすごいわけです。

「自分の機嫌は自分で取れ」「ネガティブなことを言うな」「感情的になるな」という世にあふれる標語の嵐が、それを見事に証明している。

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もちろん、それ自体がとっても大事なことではあることは僕も認めます。

自分の不機嫌を他人にぶつけていいわけじゃないし、怒りや寂しさを免罪符にして、周囲をむやみに傷つけていいわけでもない。

でも、その圧があまりにも強くなりすぎると、人は自分が変化する前に、自分の感情そのものをミュートしてしまうんじゃないか。

怒りも拗ねも、不信感や寂しさなんかも全部、「自分で処理すべきもの」になってしまって、それをちゃんと変容させる前に自らミュートしてしまう。

本当は、その感情の奥に、まだ本人にも見えていない物語があるかもしれないのに、です。

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そして、これが現代のいちばん奇妙なところなんだけれど、こうした感情ミュート社会に対して、まっとうに違和感を持っている人ほど、まっとうな「お昼の世界」からははみ出してしまうというジレンマです。

機嫌がいいフリができず、建前を建前のまま受け入れられない人。傷ついていることを、傷ついていると認めて、機嫌が悪くなってしまう人、そういう人たちは、いまの昼の世界では、ちょっと面倒な人間として扱われてしまう。

つまり、感情をミュートできる人だけが、こちら側の「表の社会」で安全に生きていける。

逆に、そうでない人は、どこか別の場所を探すことになる。ここに、現代のいちばん奇妙な反転があるんだと思う。

つまり、真っ当に生きたい人ほど、真っ当な昼の世界からはみ出してしまう。

これは本当に、変な話だと僕は思うんですよね。

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そんなことを考えていたら、ふと、いまSNSで話題になりがちなキャバ嬢たちのことを思い出しました。

彼女たちが人を惹きつける理由は、もちろん見た目の華やかさもあるんだと思うのですが、でも、それだけじゃない気がするのです。

彼女たちは、昼の世界が隠そうとするふてくされる感情を、まったく隠そうとしていない。

怒りも不信感も、拗ねも寂しさも、そして妙な明るさや、このルッキズム全盛期においても少女なら全員が持っているであろう自らの見た目に対してのあけすけな欲望も、一切隠さずに、全部そのまま持っている。

持ってしまっているからこそ、夜の世界に向かった。

だから、逆説的に人は彼女たちに惹かれるんだと思う。その折り合いをつける気がまったくない姿に、逆に励まされるというような。

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そして、もしかすると、いまそんな「ふてくされている人間」の受け皿として、かろうじて残っている数少ない場所が「夜の世界」なのかもしれないなあと。

令和に入ってから、学校も会社も、あまりにも建前化してしまった。そこでは、怒りや拗ねや社会への不信感を抱えたまま存在することは非常にむずかしいわけです。

だから、ふてくされるような生の感情を抱えたまま生きようとする人たちが、夜の世界へと自然と押し出されていく。

これは、夜の世界を美化したくて言っているんじゃありません。そこはくれぐれも誤解しないでほしい点です。

夜職を安易にロマン化するつもりはまったくないです。搾取もあるし、危うさもあるし、本人たちが傷つくことも多いはずです。

ただ、それでもなお、そこで自分のふてくされや不信感を、単なる不機嫌のまま終わらせずに、社会性へと変えていく人たちがいる。

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いま話題のマンジャロの一件も、普通に考えれば、当局から自分宛てに直接リプライが飛んできたら、手のひらを返して、素直に謝るのが筋です。

でもそこで彼女は、更に当局に対しても歯向かったわけですよね。昼の社会の常識から考えたら、どう考えても頭が悪いし、バカげた行動です。

でも彼女は、それでも自分の違和感のほうを突き通した。

そこに人々の耳目が集まり、同世代のふてくされている女の子たちの一部が、ファン化していく理由も、一方でわからなくはないなと思います。

それは、ジブリのヒロインに僕らがどこか憧れるように、です。

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そう考えると、現代でいちばんリアルにジブリヒロインをやっているのは、もしかしたらキャバ嬢たちなのかもしれない、そんなことを考えてしまいました。

実際に、『千と千尋の神隠し』は、水商売のイメージが重ねられてつくられたというのは、あまりにも有名な話です。

コミュニケーションが苦手だった女の子が、ああいう場所で働くうちに元気になっていく。そういう着想が作品の背景にあったというエピソードが広く語られています。

つまり『千と千尋』は、最初から「昼の建前社会では救えない少女が、夜のような場所で変化する物語」でもあったんだと思う。

宮崎駿という人は、たぶんずっと前から、このことに気づいていたんじゃないか。

昼の世界が、ある種の少女たちを受け止められなくなっていること。そして、そういう少女たちが、別の場所、つまり「あちら側」や「別世」でしか息ができなくなっていること、そして、その別の場所がけっして安全な場所ではないことを、です。

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でも、ここで一度、冷静に立ち止まりたい。

夜の世界だけがその受け皿になってしまうのは、やっぱり絶対におかしいと僕は思います。

ふてくされている感情や、素直であるがゆえに、機嫌よく振る舞えない感じ。そういうものを、昼の世界の中でも抱えられる場所が、いま必要なんじゃないかと思う。

ここで、昨日も語った「共同体」という考え方にもつながるなと。

共同体とは、個々人の不機嫌を矯正する場所じゃない。一方で、「各人で機嫌よくなってから、来てください」と言う場所でもないわけです。

その不機嫌の奥にある違和感、そこにどんな物語があるのかを急がずに一緒に聞く場、それが共同体なんだと思うのです。

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この点、『思い出のマーニー』でも、アンナはひとりで真実を抱え込むんじゃなくて、いろいろな大人たちの語りを通じて、自分の物語に出会い直していくように原作では描かれています。

アンナの家族の来歴が、ひとりに対して個人的に告げられるんじゃなくて、何人もの大人たちのあいだでバトンリレーされながら、少しずつ手渡されていく。

不機嫌の原因、つまり諸悪の根源でもあった家族の物語を受容していく過程は、ひとりで知らされるより、誰かと一緒に聞くことで救いになるということですよね。

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少しメタな視点になりますが、昨日の読書会も、たぶんそれに近かった気がします。

誰かが「アンナはちゃんとふてくされている」と言う。それを聞いたまた別の誰かが、千尋やキキのことを思い出す。さらに別の誰かが、自分の家族や記憶の話を重ねて語りはじめる。

そうやって、一冊の本の意味が、少しずつ共同体の中で開かれていくわけです。

ひとりで読んでいたら、ただ通り過ぎていたかもしれない言葉が誰かと一緒に読むことで、急に自分の物語の一部となるし、それを他者とも素直に共有できる。

そこに受け取ってもらえたという実感が、確かに宿る。それが共同体の役割なんだろうなあと僕は思います。

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つまり、ふてくされている人を、すぐに正しい場所へ戻すんじゃなくて、その人が一度「あちら側」へ行って、何かを見て、何かを受け取って、こちら側へ戻ってくるまでをちゃんと待つこと。

そのあいだ、ひとりで抱えすぎないように、そばで物語を聞いていること。

それが、本来の共同体の役割だったんじゃないか。

そして、その役割を昼の世界が手放してしまったから、いま夜の世界がそれを引き受けざるを得なくなっている。彼女たちの行き場が、そこにしかないから。

最近公開されていた森七菜主演の映画『炎上』も、まさにそんな物語でした。完全にふてくされている女の子が、ひとり歌舞伎町に向かう物語。

だとしたら、共同体を昼の世界に取り戻すというのは、感情を抱えた人たちを夜の世界だけに、押し出さないということでもあるんだと思う。

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ここまで考えて、最後にもうひとつだけ、読書会の中で出た問いがまだ自分の中に残っています。

もし、マーニーという存在が、アンナにとっての幽霊やイマジナリーフレンドのような存在ではなく、もしAIだったらどうだったのだろうか、と。

これから先、ふてくされている人の話を、AIが聞いてくれる時代になることは間違いない。

でも、マーニーがAIだったとして、アンナは果たして本当に同じように救われたのだろうか。そして僕たちは、その物語を同じように受け止められただろうか。

たぶん、AIは昼の世界の延長線上に置かれてしまうと、また同じことを繰り返してしまうような気がします。

果たして、それは本当に救いなんだろうか。

きっとこのあたりに、AI時代以降の共同体の役割を考えるヒントも眠っているんだろうなあと、いま漠然と考えています。

今日のお話が、いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても何かしらの参考となっていたら幸いです。