昨日、鹿児島の弾丸ツアーが開催されました。
サロン内での何気ないやりとりが発端となり、鹿児島県内で神主をされているメンバーの山田さんに会いに行こうということで、メンバーの三浦さん、うきょうさん、鳥井の4人で鹿児島ツアーを行ってきました。
今回は鹿児島市内の観光がメインで、念願の仙巌園にいくこともできて、個人的には本当に嬉しかったです。
ちなみに、仙巌園(せんがんえん)は、鹿児島県鹿児島市にある日本庭園で、鹿児島の代表的な観光地の一つ。
鹿児島の藩主といえば幕末の島津斉彬が有名ですが、江戸時代にその島津家によってつくられて、別荘としても使用されていたようです。車がないと行きづらい場所にあるために、今回僕も初めて訪れました。
晴れ渡る空の下、最高のお天気のなかで、絶好の仙巌園日和。この時期に行くことをみなさんにも強くオススメしたい。
僕自身、これまで日本の様々な場所にある日本庭園に足を運んできましたが、仙巌園の景色は、桜島と海を借景にした、素晴らしい日本庭園でした。かなり珍しい景色を楽しむことができます。
しかも薩摩藩らしく、どことなく異国情緒も溢れている感じ。
NHKの大河ドラマ『西郷どん』にも合わせて、仙巌園内にある敷地内の施設も、明らかにお金をかけてキレイに改築されているので、とても素晴らしい観光施設だと思います。
仙巌園のあとは、鹿児島市内にあるとても素敵な喫茶店にいったり、鹿児島名物の「しろくま」を食べにいったりしながら、思う存分、鹿児島の街を堪能しつつ、朝から晩までみんなで一緒に語り合いました。
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で、ここからが今日の本題になってくるのですが、20代、30代前半、30代後半、50代と、客観的に見ると本当にかなり変な集まりです。
しかも、それぞれの仕事や興味関心もバラバラです。
昨日も話題になりましたが、このサロンに入っていなかったら、決してお互いが出会わなかったはずで、街の中で出会っても、完全にお互いを無関係の人間だと感じてスルーしていたはずの関係性です。
でも本当は、このように同質性が高くない人たちと交流したほうが本質的には楽しいはずなんですよね。
なぜなら、そのほうがお互いの異なる部分が際立ち、そこから得られる自らの気づきや発見は何倍にも膨れ上がるわけですから。
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でも、それがわかっていてもなお、そのような場をつくることは、本当にむずかしい。
それは一体なぜなのか。
価値観が違いすぎて、ハレーションを起こす可能性が非常に高いからですよね。
思わぬところで相手の地雷を踏みかねない。また、自分自身も相手の言動の中に無意識のうちに悪意を読み取ってしまいがち。
たとえば最近だと一番わかりやすいのは、Appleの動画の大炎上の件なんかが挙げられると思います。
Appleの社内でも、まさか今回のPR動画がこんなにも世の中の逆鱗に触れるなんておもっていなかったはずです。もし万が一でも思っていたら、この動画は決して公開されていなかったはずですから。
だからもちろん、明確な悪意なんてものもないのでしょう。
でも、そんな悪意がなかった動画やメッセージだとしても、メッセージを発した瞬間、それは受け手のものとなり、相手の受け取り方や感じ方次第であり、その受け取られ方は決して操作できない。
だから、あの大炎上はAppleの社内ではまったく問題がなかったこと、少なくとも賛成多数で公に公開することが決まったこと自体に、気づきや発見、大きな学びがあるなと僕なんかは思います。
同一性というのは、つまりはそういうことです。
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このように、たとえまったく悪意がなかったとしても、自分には関係のないところでドンドンと尾ひれがついて広がっていく。
それが現代社会であり、SNSが中心で動いている世の中の一番怖いところ。
そのような状況に陥ることがものすごく怖いから、余計にみんな似たような価値観の人間同士で固まろうとする。
明らかに価値観が異なる場合には、建前だけを優先して、本音は絶対に明かさない。
街の中で出会ったら、絶対に仲良くならないだろうなあと思う人同士で、本音ベースの話なんて、全くしなくなるわけですよね。
でもそうすると、より一層世の中の「他者」の価値観がわからなくなっていき、余計にお互いが何を考えているのかがわからなくなってしまう…。
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じゃあ、一体どうすればいいのか。
これはたぶん、そこに集う人々同士の「受け取り方」を揃えることのほうが、きっと大切なのだと思います。
言い換えると、「発信する内容≒話し方」を揃えるのではなく「受け取る姿勢≒聴き方」を揃える、と言ったらわかりやすいかもしれない。
相手への敬意、そしてその違いから学びとろうとする意欲。含まれてもいない悪意を、勝手に読み取らないこと。
「公共」を立ち上げるための、そんな敬意と配慮と親切心を持ち合わせている人同士で集まることが大事なんだろうなと思います。
ただし、これを「礼儀」だと呼んでしまうと非常に堅苦しく感じてしまうし、「礼儀」という言葉で日本人が想像するのは、大抵は形式張ったマナーの話ばかり。
でもそれは手段のパターン化の話であって、真の目的ではない。
礼儀の本来の目的、そしてその本質はその場その場で自分の頭で考えながら、相手に極力不快感を与えないこと。
この受け取る姿勢として、相手への敬意と配慮が揃っていれば、同質性が高くないコミュニティであっても、うまく回っていくんだなと自分たちの経験を通して、いま本当に強く実感しています。
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相手の地雷を踏まないようにと、敬意と親切心をもってお互いが行動をしつつ、たとえ相手に踏まれたとしても、悪意のない踏まれ方なら「大丈夫、気にしないでください。それよりもなぜ、そのような考えに至るようになったのかに興味があります」と話が深まっていく方向へと向かうこと。
鹿児島でも、そんな対話のやりとりが実際に何度も繰り返されていました。
何かわかりやすい共通解を見出して、価値観をひとつに統一する必要なんかなくて「なるほど、そんな考え方もあるんだな!」で本当は良いはずなのです。
もちろん、場の空気に流されすぎずに、自分の意見が言いやすい環境が構築されていることも、非常に大事なことだと思います。
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それができるようになると、映画や小説に感じるような「感動」と「発見」も、日常の交流の中で得られるようになると思うのです。
そもそも、なぜ僕らが、映画や小説であれば、それらが得られるのかといえば、それはやっぱり自ら読もうとしているからですよね。
逆の方向から眺めてみると、自分の地雷が故意に踏まれる危険性がないことを理解しているから、安心して没入することができる。相手から、自分に直接の刃が向けられることはない。
もし仮にその刃が刺さった場合は、自分がそうやって受け取ったことが原因だということがはっきりと分かっているから、映画や小説は、どれだけ価値観が異なる作者や登場人物の物語であっても一定程度楽しめるわけです。
スクリーンや紙面を通した非同期型であり、さらにそれはフィクションであるという安心感もそこにはあると思います。
そこにリアリティはあるけれど、不気味なリアルなものとして、画面を越えてこないという安心感があると言い換えてもいいと思います。
でも、それが「リアル」だったらもっといいはず。
観念や意識世界ではなく、それは「身体性」の世界の話になるから。
ときに自分が傷つくかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
でも何度も繰り返しますが、リアルで異質な価値観に出会えたときのほうが、結果的には喜ばれることが多いなと思います。それは、それぞれの本質的な成長や成熟につながっていく。
あとは、少しの踏み出す勇気の問題です。
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そのためには、同じような見た目で、同じような価値観の人間で集っても仕方がない。
というか、それは既に会社として結実している。
そして、Appleという建前としてはダイバーシティ全開の雰囲気を出しているような会社だって、あのようにミスをするわけだから。
チームは加速することが重要だから、同質性を強め言ったほうが良いかもしれないけれど、コミュニティは違う。お互いを尊重し、その違いを受け入れていくことのほうにこそ、価値がある。
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今回の鹿児島ツアーに限らず、僕らのコミュニティの合宿イベントでは、いったい何の集まりなんですか?と聞かれることが本当に多いです。
見た目も年齢も、全然違うから当然ですよね。
ただ、そのようなバラバラなコミュニティにも関わらず、どこよりもきっと、全員が極度に緊張もすることなく、自然体でお話できている空間になっている自負もある。
全員が、まずは相手の話をちゃんと最後まで聴いてみようとしてくれること。年長者が偉いわけでもなく、運営チームのメンバーも含めて全員がフラットにお互いの違いを尊重し合えることができている。
そうすれば、ひととひととはこんなにもお互いに気付きや発見を与え合えるわけだし、その上でそれぞれが全く別の道を歩みつつ、その歩みに対し敬意を払いながら、自分は自分も道をしっかりと歩もうと思えるようになるんだなと。
本当に貴重な体験をさせてもらっているなあと思います。すべてここに集ってくださっているみなさんのおかげです。本当にどうもありがとうございます。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2024/05/10 20:30