先日、Wasei Salon内にて「真正面から立ち向かうこと」と「エスケープすること」、そしてその間(あわい)とは」という対話会イベントが開催されました。

https://wasei.salon/events/9694451b2a07

企画してくださったのは、ほしまどさん。

以前僕が書いた「他者と衝突した時に、エスケープすることだけが正しいのか」というブログの内容をきっかけにしてもらって、イベントを立ててくださった形になります。


この対話会が、本当にとってもおもしろかった!

まずなによりも、このようなテーマに対して、みなさんが興味を持ってくださっているということが本当に嬉しかったです。

やっぱりどこかで、みなさんも似たような違和感を感じられていたのだなあと思い、書いてみてよかったなと思いました。

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もちろん、最初にくれぐれも誤解しないでほしいのは、エスケープすること、居心地の悪い組織や共同体から、逃げること自体が決して間違っていると言いたいわけではない。

その選択は、むしろ圧倒的に正しいです。これはどれだけ強調しても許されることだと思うので、何度も繰り返し書いておきますが「そんなくだらないもののために、自分の命を無駄にするな」というのは、有無を言わさず正論です。

その正しさを承知の上で、いつの間にか向き合うことが完全に失われていることに対しての違和感の話なのだと思います。

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対話会の中では「一体私たちは何から逃げていて、何と立ち向かわないでいるのか」ということが話題になりました。

僕は、その対象というのは「空気」や「世間」からだと思っています。

共同体からエスケープするか、そこに残るか、という話だと、自分の要求を実現させるか、他者の要求を甘んじて受け入れるか、そのどちらかだと思われがちなんですが、

そうじゃなくて、その組織や共同体におけるメンバーや成員による「共同変容の困難さに踏み出す勇気」の話であって、そこから逃げていると感じるから、僕らは一抹の不安というか、モヤモヤを感じ取ると思うのです。

つまり、そのような「対話の面倒くささ」から、僕らはエスケープしていることに対してのある種の後ろめたさを感じているのではないかというのが僕の仮説です。

なぜなら、以前のブログの中にもはっきりと書きましたが、それだと従来の共同体は何も変わっていかないから、です。

学校でいじめられている子が学校から逃げた場合、その学校は何も変わらない。

むしろ、より一層自分が抜けたあとにおいては、そのコミュニティ内では、従来的な価値観や、自分が居心地が悪いと感じた価値観が強化される方向に向かうわけですよね。

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ただ、むしろそうであるからこそ、余計な戦いをせずに逃げるのが得策であって、「Win-Winでなければノーディールを選択しろ、決してWin-LoseやLose-Winを選んではいけない」というあのありきたりな話にも非常に近い。

でも、果たして本当にそうなんだっけ?と。

僕らがこの場合に後ろめたさを感じてしまうその原因は「公共性」やそのための対話から目を背けてしまったからだと思うのです。

でもそうなってくると、次なる疑問はその公共性とは一体何なのか?という問題ですよね。

両者が妥協し合ったときに見つけ出すべき落とし所、それを目指そうとするときの、その落とし所の基準です。

自己の要求と、相手の要求の真ん中というのは取ることは本当に難しいこと。

ともすれば、Lose-Loseの関係性にもなってしまう。

誰もまったく特をしない状況が生まれる。というか、誰も自己利益が増大されないから、余計な交渉なんかはせずに、エスケープしましょう!って話になるんだと思います。

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確かにそうやってエスケープし合えば、お互いの自己利益の増大はなされる。

でも、そうすると、共同体は変わらない。ここで僕らは、袋小路というか隘路に迷い込む。

そうすると、自分は救われても、今存在する子どもたちや、さらにこれから生まれてくる次の子どもたち、つまり広義の「他者」に対しても、似たような負担を押し付けることになってしまう。

それは、今のイスラエルとパレスチナの問題なんかを見ていても一目瞭然だと思います。

また、その自分以外の他者には、きっとこれまでの「死者」も含まれてくると思うのですよね。意外とここが強調したいポイントです。

そして、ここから以前もご紹介したことのある政治学者・中島岳志さんの「死者の立憲主義」の話にもつながっていく。


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この他者たちに対する、自己の面目の立たなさがモヤッとさせてくる原因だと思います。

それは自己犠牲的だ、と思われるかもしれないけれど、でもその両方の目線、これから生まれてくる子どもたちと死者への敬意、それを同時に実現したときに、人間にとって本来の一番の喜びや感動がそこに存在していると、僕は思うんですよね。

説教臭い話に聞こえてしまうかもしれないですが、何もむずかしい話ではなくて、おばあちゃんの意志を継ぎ、自分たちの世代の子供を育てあげて、次にバトンをつなげていくこと。

そうやって、自己を超越したところで「継承されていく喜び」があるからこそ、人類は様々な家庭内での不和や困難があろうとも、必ず家族をつくり、ここまで絶滅せずやってきたわけですから。

それっていうのは、一般の人々でも感じ取れる、ものすごく手触り感のある喜びだからこそ、ここまで続いているのだと思います。

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このように振る舞うことが、人間的な「成熟」に向かうことであると、僕らは無意識のうちに理解しているのだと思います。

目的に合わせて、常に取替可能性を求めて、消費し続けることは「幼稚である」と思っている。

そして、その成熟が「生活をする」ということだとも思うんですよね。

具体的には、いつも最適なものを外部から支配的に調達してくるのではなく、ブリコラージュ的に、目の前の人々と共に楽しもうとする勇気や気概ですよね。

現代は、とにもかくにも「消費一辺倒」の世の中になってしまっている。

だからこそ、そのような向き合い方ががとても大事になってくると思います。

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「家」というのはどうしても保守的な文脈で語られてしまいますが、でも家族の重要性、そこに存在している共同体感覚を抜きにして僕らはコミュニティのことを語れるわけがない。

それがもともと、「家」を大切にした理由でもありそうだなと僕は思っています。

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とはいえそんな死者や、次に生まれてくる子どもたちのために、自己利益の最大化を、わざわざ逃すひとたちはとても少ない。

全員ができることじゃないし、そんな行動原理を万人に求めることは到底不可能だと思うかもしれません。

実際、僕もそう思います。

でもきっと、社会全体の10%でも、そのようなスタンスや価値観で生きるひとたちが存在すれば、社会はガラッと変化するはずなんです。

実際、「家」の系譜問題であっても、それは長男だけが担えばよかったわけですから。

ここでの問題は、長男であったら有無を言わさず、それを担わされることに問題があったわけで。

本来であれば、それを担うこと、自らその荷物を背負うこと自体は決して否定されるべきものではない。

でも今は、長男に無条件に背負わせることが間違っているという理由から、家族自体を完全に解体してしまえ、という論理になっているんだと思います。

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ある種の痩せ我慢や、そこからたちあらわれてくる居心地の悪さを積極的に受容しようとするひと、それこそが自らの喜びであり、自分の役割だと自然に思えること。

それが、マザーテレサやガンディーのような人々だったのだと思います。

くれぐれも誤解しないで欲しいのは、そうしたからといって、何か名誉ある賞がもらえるとか、他者から褒め称えてもえらえるということでも、まったくない。

むしろ、なんで自分だけが…と思うはずです。アイツらは割り切ってあんなにも楽しそうなのに、と。

でもそのようなアンサング・ヒーローがいるおかげで、僕らの日々の暮らしや生活は成り立っている。それは紛れもない真実です。

僕らがそれに対して、これまで気づけていなかっただけです。

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最後に、先日、村上春樹さんの短編小説『かえるくん、東京を救う』をオーディオブックを聴いて、これも見事にそんなアンサング・ヒーローを描いた作品だなと思いました。

まさに今日語ってきたような問題、そこに生まれる葛藤や、誰に知られるわけでもないアンサング・ヒーローのかっこよさみたいなものが短い物語の中に端的に描かれている作品です。

ぜひ今日のようなお話に興味があるひとには、実際に読んでみて欲しい内容です。

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いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。