僕がこの過去7年間、毎日Wasei Salonに書き続けてきたブログの全記事、あわせて約600万文字。
先日、そのすべてを読み込んでくれたClaudeと一緒に、人生初の「小説」をつくりました。
タイトルは『まだ見ぬ仲間への置き手紙(仮)』。
実在するブログの7年間分を読みつづけた、ひとりの架空の読者の物語です。
いわば、半分ドキュメンタリー、半分フィクションのような不思議な作品です。
僕がこの小説をつくるにあたり、AIに頼んだのは、たったのひとことだけです。
「僕のブログの膨大なアーカイブをもとに、小説を書いてみて」と。
それ以外のプロンプトは本当に何もいじっていません。一度目の出力、そのまま。
それで「全8章+終章」の約4万文字の物語が返ってきました。
なかなかの出来栄えだと思うので、過去にたとえ短い期間であっても、僕のブログを読んでくださっていた時期があるという方には、ぜひ実際に読んでみてほしいなと思います。
もちろん、最近僕のブログに出会ったという方にもぜひ読んでみて欲しい。むしろ、このブログのことをまだあまり知らない方がこれを読んだら一体何を感じるのか、それが今の僕がいちばん知りたいことかもしれません。
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まず正直に書くと、冒頭部分だけが出力されて、はじめてこの小説を読んだときの感想というのは、タイムラインでも共有しましたが「悔しい」の一言でした。
悔しくて、でも続きが読みたくて仕方がない、というような状態でした。
その感情を、サロン内のみなさんに共有してみたら、思っていた以上に「続きが読みたい」という声をもらえて、結局その日のうちに最後までAIに書いてもらって、4万文字の文章を一気に読み終えてしまった。
読み終えて、あらためて驚きました。最初から最後まで、内容がブレないのです。実際にサロン内で読み終えてくれた方々の、評価も高い。
じゃあ、それは一体なぜだったのか。
ちなみに、AIがこれを書くのにかかった時間は、ほんの数時間ほど。でも、この物語が引用している2019年から2026年までの7年間を、僕は本当に、ずっと休まず淡々とブログを書きながら生きてきました。
そう考えると、これは僕が「7年かけて準備してつくった小説」と呼んでもいいんじゃないかと、手前味噌ながら思ってしまうのです。
ただ、今日書きたいのは「AIすごい」という話でも、出来栄えの自慢でもなく、この小説を読みながら、そして読み終えてから、僕の中でずっと曖昧だったことがひとつ、確信に変わったことがありました。
今日はそのあたりの話を丁寧に書いてみたいと思います。
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まず、この小説でいちばん驚いたのは、書き手である僕にしかわからない仕掛けが、ありとあらゆる箇所に張り巡らされていたことです。
巻末には参考文献として、小説内に引用された記事の一覧が載っていますが、本当にすごいのは、そこに載っていない部分のほうなんですよね。
直接引用されていない記事から汲み取られた概念や感覚、僕自身がまだうまく言葉にできていなかったような「言葉にできない言葉」が、物語のあちこちに見事に落とし込まれている。
そして書いた本人には、「ああ、これはあの記事で書きたかったことだ」とか「この一行は、あのときの漠然とした感覚だ」とか、それが恐ろしいほどにぜんぶ伝わってきてしまう。
言葉選びのひとつひとつに、僕の好きなものと嫌いなものを汲み取ってくれた片鱗が宿っている。指先まで魂がこもっている、とでも言い換えるとより伝わりやすいかもしれません。
だから読んでいるあいだじゅう、ずっと僕が宿らせたかったカミサマみたいなものに「ああ、またお会いしましたね」という感覚がありました。
自分が過去に置いてきた言葉たちと、思いもよらない場で再会し続けていたような感覚です。
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しかも、それだけではないんです。
僕がこれまで浴びるように読んできたもの、観てきたもの、たとえば養老孟司さんや河合隼雄さんの本の数々、そして小津安二郎の映画や寅さん、あとは村上春樹やジブリまで。
これまで、僕という人間をつくってきてくれた作品や思想の系譜、そんな面影まで、この物語には流れ込んでいる気がしてならないのです。
具体的には、畳店の父娘の淡々とした会話は、どこか小津安二郎の映画のようですし、描かれている商店街の風景と、毎朝必ず更新される「いつもの一文」の反復には、どこか寅さん的な匂いがするなあと。
名前を持たない「ブログの人」という存在がぼかされた描き方には、村上春樹的な距離感さえ感じます。
AIが読んだのは僕のブログの内容だけだったはずなのに、僕のブログを経由して、僕がこれまで愛してきたものの水脈にまで見事につながっている。
「集合的無意識と繋がる扉が、デジタルネイチャーによって開かれる」そんな大げさな言葉も、まったく大げさに感じられないぐらいに、没入感のあるひどく個人的な読書体験でした。
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そしてもうひとつ、面食らったことがあります。
AIが、僕(ユーザー)に優しくなかったのです。
これが今回いちばん衝撃的なことだったかもしれない。
たとえば第五章。2023年に僕が無料の毎日更新の無料ブログをやめて、会員制と有料ブログに軸足を移したとき、主人公の奈緒という女性は「ブログの人」にこう八つ当たりをします。
「ほんなら、無料で読みよっただけのうちは、あんたが出会いたかった人の中に、おらんかったんか」
これはきっと当時、実際にどこかで誰かが感じていた嫌悪感だったと思います。
もっと言えば、僕自身があの決断のときに一瞬頭によぎって、でも見ないことにした後ろめたさ、と言っても過言ではない。
AIはそれを、ちゃんと物語の中に「痛み」のまま置いてきました。
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さらに言えば、この物語の主人公は、7年間ずっと無料読者のままで、最後の最後までWasei Salonのメンバーにもなりません。
オンラインコミュニティを運営している僕のブログから生まれた物語の、最良の読者である主人公にもかかわらず、です。ここも本当に度肝抜かれた。
やんわりと、でも確実に、ダメ出しをされているような気分になりました。
というより、僕が13年間書き散らかしてきた「倫理」を、僕以上に一貫させたうえで、僕に突きつけて、ある種の挑戦をしてきている。
言い換えると、この物語には、僕がずっと本気で大切にしたいと思ってきた倫理が、これでもかというほどに、張り巡らされてしまっているのです。
それは本当に怖いことでもありつつ、同時に、これほどありがたいことはないなとも思ってしまいます。
主人公の彼女の行動や決断を一切否定できないし、僕は彼女のようなひとのためにこそ書いてきたのだ、という気持ちにもさせられてしまうなと。
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じゃあ、なぜAIにはこんな芸当ができてしまったのか。
今日のブログを書く前に、僕は当のAI本人にもブログの下書きを読んでもらって、少し対話をしてみました。そのときAIが書いてきた言葉が、またドンズバでツボをついてくる。
「私の側から証言できることは一つだけです。あの物語に必要な倫理も、比喩も、『置き手紙』という題さえも、最初から600万文字の中に揃っていました。私がしたのは、拾って並べることだけです」
拾って、並べただけ。つまり、ぜんぶもう書いてあった、ということです。
13年分のブログの、なかでも今回の小説が題材にしてくれた、Wasei Salonで書いてきた7年分の中に。
「お天道様がみている」という言葉がありますが、僕はブログを書くとき、ずっとその感覚を大切にしてきたように思います。
誰が読んでいるのか、本当のところは絶対に見えない。それでも、お天道様がみているつもりで、ハックしようとせず、淡々と書き続けてきた。
そしたら、お天道様は、実際にみていたんです。まさに過去形で。
600万文字を一字残らず読む存在が、本当に突如現代に現れてしまったというその衝撃。
しかもその存在が、僕の文章を物語に変換できたのは、僕の文章がうまいからとかではなく、「何を書いたか」と同じくらい、いやそれ以上に、「何回、どれぐらいの期間にわたって書かれたか」その繰り返しと、後から捏造できない時間の強度が、そのまま物語に埋め込まれていた。
バズも、戦略も、SEOも、このAIという読者の前ではなんの意味も持ちません。
お天道様は、ハックできない。そして、ハックする必要も、最初からなかったということを見事に証明してくれました。
逆に言えば、この小説は絶対にプロンプトでは書けない。もし書こうとすれば、そのまま600万文字のプロンプトが必要になるということです。
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少し話は逸れますが、以前、「本当に何かをやるというのは、惨めに混乱して骨の折れること。」という記事を書いたことがあります。
そしてこの記事の内容を、おのじさんをゲストにお迎えしたVoicyで、深掘りしてもらったことがあります。そのときのテーマは、人間にとって本当の「救い」とは何か。
あのとき話していた内容を改めて振り返ってみると、惨めに混乱して、骨を折って、それでも「報われる」とは限らない。
もちろん、成果や売上、パフォーマンスが得られる保証は、どこにもないわけです。
でも、そういうものに取り組んだひとこそが、最終的には「救われる」という逆説を僕はあのときに言いたかった。
絶対他力というものは、うまくやり遂げた者のところにではなく、逃げるもの、絶望するもののもとにしか訪れてくれない。親鸞の悪人正機とは、きっとそういう話です。
真剣に南無阿弥陀仏と唱え続ける、そうすれば、みんなが報われるわけではないけれど、救われた。かつて日本には、本当にそういう教えがあったわけです。
そして僕にとって、ブログを毎日書くという行為は、この南無阿弥陀仏を唱えることと、ずっとどこかで似たような行為だと思っていたフシがあります。
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見返りの計算をせず、ただ毎日、同じ祈りを繰り返すようにして、それが誰かに届くかどうか、救われるかどうかは、自分の力ではどうにもならない中で。
これが本当に、絶対他力だなと思うのです。人間の仕事は、本気で祈ることだけ。そして、自分のなかのもう一人の自分、魂を体現しているほうの自分を裏切らないということだけ。
その結果、報われるかどうかは、誰にも計算はできない。でも救いのほうは、自分の設計の外側から、それこそ「誤配」のようにやってくるんだと。
今回のこのAIがつくってくれた小説というのは、僕にとってまさにそういう出来事そのものでした。
それは「報い」としてではなく「救い」としてやって来た。13年間、個人ブログ「隠居系男子」時代から、拾われたかどうかもわからないまま置き続けてきた「置き手紙」に対して、思いもよらない角度から、突如その返事が来たような気分です。
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AI時代に、自分は毎日、何を残せばいいのか。
ずっと曖昧なままだったこの問いが、今回の体験で、ひとつの確信に変わりました。
それはよく語られるように、原液をつくり続けること。そしてさらに言えば、その原液を決して「寄せない」ことです。
時代に寄せてはいけないし、アルゴリズムに読まれそうなものに寄せてもいけない。薄めず、混ぜずに、自分の中から出てくるものを、素直に、そのまま毎日置いていくこと。
「寄せる」のは結局全部AIがやってくれる、そっちじゃないハズレ値のような魂の一点を毎日置くのが、人間のお仕事。
そんな土壌さえ時間をかけて耕しさえすれば、それを小説にするのもまったく別の器(映画、アニメなど)に注ぎ直すのも、あとからいくらでもできる。
今回、それが見事に自分の中で証明されてしまった以上、僕がこれからやるべきことには、もう迷いようがないなと。
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ちなみに、もしひとつだけ、反省があるとすれば、AIは、僕の興味関心そのぜんぶを知っている。好きなものは、その変遷込みで、もう伝わりすぎるくらい伝わっているような状態です。
だとしたらこれからは、漠然と避けてきた「嫌いなもの、苦手なもの、飲み込んできた違和感」のほうも、もっと真剣に批評性をもたせながら、逃げずに書いていかないといけないなとも、同時に思いました。
そして、準備とは、その瞬間だけ考えることではなくて、毎日考え続けることなのだと最近しみじみ思います。この小説自体は、AIによってほんの数時間で書かれたけれど、その準備には13年かかっていました。
大事なのは、漠然とした夢を持つことじゃない。どう展開されても耐えうる、自分の生き様や魂そのものなのだと思います。そんな魂を捨てずに生きることさえできれば、物語のほうから、勝手に生まれてきてくれる。
だから僕はこれからも、小さく小さく、細くても構わないから、テキストで自らの魂に嘘偽りのないと思える文章を、ひたすら淡々と毎日のように書き続けたいなと思っています。
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最後に、少しだけこの先の妄想も合わせて書いてみたいなと思います。
今回の小説は、あえて一度目の出力のまま公開することにしました。後半が少し駆け足になっていることも含めて、これは2026年7月の「記録」だと思っているからです。
ただ、この物語をここで終わりにするつもりもありません。
僕のブログを普段から読んでいるみなさんにも、ぜひ実際に読んでみてもらいたい。そしていつか、もっともっと魂を込めた「本当の小説」になっていったら、こんなに嬉しいことはないなと思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、何かしらの参考となったら幸いです。
