「好きなことを仕事にしたい」とは、よく聞くお話。

でも僕は、好きなことなんていつでもやめられるとも思うのです。

大好きで夢中になれるものなんて、それゆえに意外といつでも簡単にやめられると思うのですよね。引力としては、実はそれほど強くない。

好きで得意なことは「やってていいよ」と言われたら、いつまでもやっていられる類いのものであって、最愛のひとや子どもが声をかけてきたら、スッと手を引くことができるようなもの。

で、また一人の時間ができたら、時間を忘れて取り組んでしまうこと。それが「好きで得意なこと」だと思います。

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つまり、「寝食を忘れて取り組める」という言葉は意外と脆い。

実際には、その対象から離れて寝食ができているのだから。そうじゃなくて、散々に絶望させられていてもなお、どうにかして希望を抱きたくなってしまうもの。

そのようなもののほうが、本当は人間にとって「引力が強い」ものじゃないかと僕は思います。

これは言い換えると、嫌でも何度も立ち上がらざるをえないもの、挑まざるを得ないもの。

そして、これはずっと一貫して言い続けていると思うのですが、僕はそのような事柄に取り組むひとこそ全力で応援したいですし、自分のできる限りの力を用いて、勇気づけをしたいなあと思ってしまいます。

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逆に言うと、好きなことをやっているひとは、好きにやっていれば良い。それ自体がとっても幸せなことなんだから。こちらが、応援する義理もない。

「好きなことをやって、なおかつ他者からの応援や支援を同時に求める」というのは、なんだかお門違いにも感じてしまいます。

本当に応援をして欲しければ、だったらもっと楽しそうに魅力的にやれ、と思う。

いつも例示する、トム・ソーヤのペンキ塗りのやり方を見習え、という話で。

好きなことほど、心底楽しむことができて他人から見ても楽しそうに見えるから、人はその楽しそうな雰囲気につられて協力しにやってくるわけで。

好きだけれど、別に楽しそうじゃないものに、人は決して惹きつけられない。

「なんで私はこんなに好きなことに熱中しているのに、みんな付き合ってくれなの…!?」というのは、単純にその姿自体が楽しそうでもなんでもないからであって、魅力的じゃないからです。

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で、きっと「本当の幸福」というのは、そういう好きなことじゃない。

少なくとも僕はそうじゃないと思っているフシがあります。

もっともっと「めんどくさい」ものだし、苦手意識もあるし、なんなら本質的には憎んでいたりもするものだと思う。

僕にとってはそれが「コミュニティ」そのものだというのは以前、こちらのブログにも書きました。


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で、この点、今日のタイトルにもある「本当に何かをやるというのは、惨めに混乱して骨の折れることだよ」というセリフは、村上春樹さんが『ダンス・ダンス・ダンス』という小説の中で、33歳の主人公が、13歳の少女に対して静かに伝える言葉です。

13歳の多感な時期の少女が、演技が上手な映画俳優に感化をされて新しいことを学び始めたくなったときに、そっと置き手紙のように語りかけるような言葉。

これが素晴らしい助言だなと思うんですよね。

惨めに混乱して、骨の折れることが本当に何かをやるということだし、そして実際に、そうやって取り組んでみても、それは既に取り返しがつかないほどに失われてしまっている場合がほとんどなわけです。

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つまり、惨めに混乱して、骨が折れた結果として必ず「報われる」とは限らない。いま風に言えば、パフォーマンスや成果が得られるというわけではない。

でも、僕はそういう物事に取り組んだひとこそが、最終的に”救われる”と思うのです。

で、たとえそうやって報われずにバッドエンドを迎えたひとであっても、好きなことだけをやっていたひとには決して到達できなかったところ、そんな境地に到達できると思うんですよね。

もちろん、そこは別に魅力的な場所でもなんでもない。ただただ、一点の場所に到達するというだけに過ぎない。いわゆる一般の人々が想像するような天国とか極楽浄土とかそういう場所ではまったくない。

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で、どうしてもこのときに、僕は「阿弥陀の本願」の話ばかりしてしまうけれど、たとえばそれが「絶対他力」だとして、絶対他力というのはそうやって「逃げるもの、絶望するもの」のもとにしか、本当の意味では訪れてはくれない。

それが親鸞の「悪人正機」の話にもつながると思うのです。

そうやって逃げて逃げて、逃げ尽くした先にしか「阿弥陀の本願」「絶対他力」というものは、私のもとには訪れてくれない。

また、鈴木大拙の『東洋的な見方』の中に書かれてあった、うそのできるのが、人間の人間たるところという話もすごく印象に残っています。

これは本当に衝撃的なお話だったので、少し本書から直接引用してみたいと思います。

「アミダさまよ、どうぞ自分の煩悩を皆、とってくださるな、これがないと、あなたのありがたさが、わかりませぬ」と真宗の妙好人はいうのである。煩悩即菩提の片影をここに認めうるではないか。人間としての自由は、木石などの自由と違う、また極楽や天界の住民のとも違う。仏は涅槃に入るのをやめて、 菩薩のままこの娑婆界に生死するという。涅槃に入ったり、天界に生まれたりしては、人間の自由はない。人間は煩悩に責められる娑婆にながらえて、「不自由」のなかに、自由自立のはたらきをしたいのだ。ここに人間の価値がある。人間は積極的肯定の上に卓っている存在である。


これは本当にその通りだと思うのです。

煩悩即菩提の意味は、ここにある。

煩悩というのは、それ即ち菩提なんだと。成果や結果として報われるわけではないけれど、必ず救われるというのは、そういう意味でもある。

わかりにくい話をしてしまっている自覚はあるのですが、ここがとても大事なポイントだと思います。

このときにはもはや、ネガティブな出来事を、無理やりポジティブな理解に変換するまでもない。

そうやって、なんでもかんでも面白がらなければいならない、という風に自分を調教する必要さえもないと思うのです。ネガティブなことは、ネガティブなままに受け止めれば良い。

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で、僕はみなさんに、そういうものをぜひとも見つけて欲しいなと願っています。

Wasei Salonというコミュニティは、そういうものを見つけて、ひとりひとりが真摯にそのことに対して取り組む場所。

そして、その互いの取り組む姿勢によって、言葉はなくとも、姿勢でもってお互いが励まし合える場所として役立っていたらこれ以上ない喜びです。

一方で、自分の好きなことは、好きなように、文字通り好き勝手にやってて欲しい。

そもそも、自分の好きなことなんて普通に生きていれば自分自身で見つけられるものだし、それさえも見つけられないひとのためのオンラインコミュニティや支援サービスなんて今は世の中に無限に存在しますから。

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この場というのは、そうじゃなくて、本質的には大嫌いで、でもそれに取り組まないと、なぜか自分の人生が始まっていかない、そうやって私が勝手に感じ取ってしまっているものと、丁寧に向き合って欲しい。

他人からは首をかしげられてしまうし、全く持って理解されないんだけれども、それこそ自分のゴーストや魂がそう囁くものに対して、世間のしがらみから離れて、取り組める場所として存在していて欲しい。

「普通」の家族、普通の仕事、普通の生活、普通の暮らし、普通、普通、普通…。そんなありとあらゆる「普通」の観念から解き放たれて、勝手に取り組んで、勝手に惨めに混乱して、勝手に骨が折れて、周囲からは徹底的に哀れんだ目で蔑まれる体験をして欲しい。

でも、僕はそんなときでも、決してそのことに真摯に取り組むあなたのことを決して見捨てたりはしない。

だから、猛烈に「なんでなんだよ!」ってイライラしながらも、そこに対して思う存分、自らの力を発揮してみて欲しいなあと思ってしまいます。

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繰り返すけれど、好きなものには好き勝手に取り組めばいいし、家族に「ご飯だよ」って声をかけられたら、スッとやめればいい。実際、そうやってやめられるわけですから。

そしてご飯が終わって、家族サービスも終了して、家族が穏やかに眠りについた瞬間から、また気持ちを新たにして、時間を忘れて取り組むもの。

それが好きなこと。それは本当に素晴らしい。そんなものがちゃんと見つけられたら、おめでとう。

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でも、そうじゃなくて、家族にも迷惑をかけて嫌われることもわかっているし、自分もその対象が嫌いだと思っているのに、なぜか離れずにはいられないことは何か。

最愛の人々から、憎まれてでも、取り組みたくなってしまうことは何か。

これは言い方を変えれば、家族に対して迷惑をかけていない、家族からそれに取り組んでいるあなたが嫌われていない時点で、それはたぶん本当の「天職」じゃない。

そしてその「天職」に取り組む無常のしんどさに対して、僕は静かに寄り添いたい。

世界全体が敵になっても、僕もまったくその内容に共感できなくても、そのことに対して取り組まざるを得ない「執着」や「煩悩」みたいなものを全肯定したい。

だって「それ」だと思うから、それこそが本当に人間がこの世に生まれてきて取り組むことだと思うから。

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で、きっと、本当の家族なら、それでさえも応援してくれる。

そして僕も、それを心から応援していきたいと思っている。そうやって、みなさんの「本当の家族」になりたいと願っているということなんでしょうね。

このコミュニティを通して、家族以上の「家族」のようなものを目指していきたい。このあたりは、誤解を受けやすい部分だなとは思うけれど、なんとか上手く伝わっていたら本当に嬉しいなあと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のこのお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。