Voicyパーソナリティの間でもよく話題になるこの問い。

最近だと、佐々木俊尚さんがこの話題について触れていました。


以前だと、ちきりさん、木下さんなどもよく言及されていて「歴史文化のある土地に、わざわざ子どもたちを連れて行っても子どもたちは楽しくないし、どうせ子どもも覚えてもいないだから、もっと子供が楽しめるものに変えるべき」というような意見がインターネット上の至るところで語られていて、それは本当にその通りだとは思います。

しかし、僕はこの話を聞くたびに、いつもどこかで強い違和感を同時に感じるのです。

今日はその違和感の理由について、自分なりに丁寧に考えてみたいなと思います。

決して誰かを批判したいわけではなく、自分の中にあるこの違和感の正体を確かめてみたいなと思っています。

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この点、僕が小学生のころの修学旅行先は、東北にある三内丸山遺跡、中尊寺金色堂でした。

地元が北海道函館市なので、比較的距離が近いエリアだと、このあたりになるようです。

でも、もちろん当時の具体的なその場所の風景なんかも、ほとんど覚えていない。

ただただ「つまんないなあ」と思っていただけです。

さらにちょうど、自分たちの世代から東北エリアに変更されて、ひとつ上の世代は札幌に行っていて、地味な東北なんかよりも、どう考えても派手な札幌に行きたかった、と思っていたのが当時の正直な心の叫びでした。

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でも今になって振り返ってみると、その地味な体験が漠然と良かったなあと思うのです。

たとえば歴史を学ぶなかで、たとえばブラタモリを観るなかで、東北の歴史的な地域に対する捉え方がまるっきり変わってしまう。

「なぜ、当時の藤原氏には金(きん)がたくさんあったのか。なぜ青森が縄文時代には豊かな土地だったのか。」

実際に行ったことがあるということが大人になると、まったく違った形で大きな財産になるんですよね。一度行ったことがあるからこそ、自分ごとのように捉えて味わうことができる。

喩えるなら、もともと別に大して興味もなかったけれど、一度でも自分が実際にあったことがある俳優さんだと、その方の出ている作品に対して、なんだか見方が変わってくるのと一緒の話です。

それぐらい、一度自分が実際に直接対面したことがあるという力は、計り知れないものがあるなあと思います。

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話が逸れてしまったのでもとに戻すと、僕がいつもこのような提言をみるたびに思うのは「なんで、その瞬間において、子どもたちを『満足』させなきゃいけないんだろう?」ということなんです。

「それが間違っている」ではなく、「その前提にあるものって何なのだろう?」ってよく思うんですよね。

逆に、なぜ積極的に子どもたちのなかに圧倒的な「空白」や「退屈」をつくってあげようとしないんだろう?と。

たとえば京都で言えば「銀閣寺のつまらなさ」なんかはわかりやすい。

僕が銀閣寺に初めて行ったのは大学生になってからなので、その時にはすでにものすごく感銘を受けてしまったから、これはあくまで想像に過ぎないわけだけれども、きっと中高生が銀閣寺に行っても何も感じないはず。

金閣寺のわかりやすい金ピカな外壁はテンションが上がると思うけれど、銀閣寺の侘び寂びなんかは、どう考えても若者にはつまらないもの。

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一方で、そのような子供時代における退屈さという圧倒的な「空白」がそこに刻まれるから、おとなになってから「どうやら、これに深い感銘を受けているひとたちがいるらしい、なぜだろう?」とそこ問が立つわけですよね。

最近だったら、エヌビディアの創業者ジェンスン・ファンがアメリカの大学の卒業式のスピーチの中で、銀閣寺の庭師さんが苔を手入れする様子を大絶賛していて、そこに仕事の本質を観たということが、非常に大きな話題となっていました。

あれを聞いて、修学旅行以来、もう一度銀閣寺に行ってみようかなと思う人たちがいるはずなんですよね。

その時に「以前も子供時代に来たことがある」という体験が、間違いなく本人の中に比較対象となってくれるわけじゃないですか。

それって、本当にものすごく大きな財産だと思うのです。

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この点、もしかしたら以前もご紹介したことがあるかとは思いますが、内田樹さんの『街場の文体論』の中で語られていた話が、とても強く印象に残っています。

「言葉自体は知っているけども、何を意味するかがわからない言葉」の話が本書では語られていました。

たとえば「怒髪天を衝く」とか「肝胆相照らす」とか「腑に落ちる」とか、こういうのはまず言葉があって、身体実感はないものだ、と。

普通の中学生や高校生が漢文の時間に、「怒髪天を衝く」という言葉を見ても、怒りのあまり髪の毛が逆立って天を衝くなんて身体実感としてはわからない。

でも、それは学ぶ意味がまったくないわけではなく、まずその空白をつくってあげることが大切だと、内田さんは言うのです。

以下で本書から少しだけ引用してみたいと思います。

言葉がまずある。それを習得する。イメージを伴わない用法、身体的な実感に裏打ちされていない語をまず覚える。でも、それは気持ちが悪いわけですよ。容れ物だけがあって、中身がないんですから。だから、そういう身体的実感を伴わない語はだいたいいつも脳内の「デスクトップ」に置かれている。気になるから。そして、無意識のうちにそれに合う「中身」を探している。何か未知のものを見るたびに、これはもしかして「自分が言葉だけ知っていて、実物を知らないあれ」ではないかしらと考える。必ずそういうことをしていると思うんです。もちろん無意識に。でも、「これが『あれ』なのかな?」という問いは忘れられることはない。そして、ある日、ものすごく怒ったとき、頭皮がムズムズして、毛穴が少し広がっているような感じがした。そのときに、「あ、これが『怒髪天を衝く』か」と思う。友だちと話していて、わずかな言葉で、すうっと気持ちが通じて、胸が気分よく広がったような感じがしたときに、「あ、『肝胆相照らす』とはこのことか」と思う。そういうふうに、まず用法が先行すると、それを埋める身体実感を探しながら生きてゆくことになる。シンデレラ姫のガラスの靴のように、容れ物がまずあって、それにぴたりと収まるコンテンツを探している。


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この話は、むずかしい言葉や慣用句の話ではありますが、修学旅行の体験なども、そのまんま当てはまる話だと思うんですよね。

ゆえに、大人の本当の役目は、子供が完全に自由になってしまう前に(良くも悪くも大人たちの庇護下にある間に)この「空白」をたくさんつくってあげることだと僕は思います。

過去に一度も行ったことがなくて、大人になってから、その場所の魅力を理解できるときに行ってみても「そりゃあ、そうだよね」としか感じない。

そこに圧倒的なズレやギャップが生まれてこない。つまり、問いが立たないわけですよね。「あー、しみじみと良かったね」と感じるだけ。

それは確かに今この瞬間の自分を満足させていることには繋がるかもしれないけれど、満足というのは、問いを生みにくい。

一方で、不満足には、問いが立つ。自然と「なんで?」が湧き上がる。

「負ける、失敗する、イヤな思いをする、退屈でつまんなくて死にそうになる」このあたりの負の感情を学生時代に味わう機会や体験を、修学旅行の夜の特別な思い出なんかと一緒に(引き換えに)体験してもらうことは本当に大事なことだなあと僕は思います。

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にも関わらず、現代社会は遅れてやってくることを、何でもかんでも許さない風潮がありますよね。

「今楽しみたい、今儲かりたい、いまいまいま・・・」今この瞬間の刹那的な快楽のオンパレードです。

それは資本主義における長期投資的な観点の裏返しだとは思いつつ、それが個人主義を蔓延させて、人々が対立し、分断してしまっている真の温床なのだと僕は思う。

なんでもかんでも、すべてが即時的な満足に向けられてしまっています。

今楽しみたい、今儲かりたい、今成功したいという刹那的な欲求が蔓延しすぎていて、このような価値観が個人主義を加速させていることも間違いない。

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それで確かに、今この瞬間の個人の満足度は上がるかもしれないけれど、社会から「贈与」がなくなるのも当然です。

時間的に遅れて発見されないと「贈与」は贈与にはならないわけですから。

そして、それこそ、本当の贈り物だと僕は思います。

なぜいい歳をした大人たちがそれに気づかないのか、僕は本当に不思議です。

ちなみに僕の中学校のころの修学旅行先は、打って変わって東京であり、浅草やお台場、ディズニーランドなどにも行ったのですが、当時は楽しかったけれど、それが今になっていい経験だったかと言われれば、正直あやしいところです。

ある種、強制的に学校という3年間の逃げられない期間内において、大人の一存において連れて行ける修学旅行の醍醐味は、もっと逆の方向において、検討の余地はあるんじゃないのかなあと思います。

あのとき、クソつまらないと感じたものに、今こんなにも興奮している私にハッとすること。そうやって、自己の変化を強く実感することが生きるということ。

それが学習機会を与えるということだと僕は思うからです。

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「今を大事にする」というメッセージを強く与えすぎるがゆえに、いまの私に対し刺激を与えてくれないものはすべて退屈なものに成り下がる。すべてが「今の私」の基準において断定される。

そりゃあ今の若い人たちがショート動画に流れてしまうのも、当然のことです。大人たちが今を楽しめ!っていうのだから。

だから僕は「修学旅行で学生たちを京都に連れて行く必要があるのか」という問いは、根本的に間違っているなあと思っています。

言い換えると、そのような考え方や価値観それ自体が、今のような社会を構築する一番の原因になっているとんだと感じているということを、改めてここでハッキリと主張しておきたいなあと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなっていたら幸いです。