「自由である」とはどういう状態か。最近よく考える問いです。

一般的には、様々な選択肢やバリエーションかある中で何でも好きに選べることが自由だと言われています。

だからこそ、その振れ幅が大きいひとほど「こだわり」を持った自由なひとだと思われている節がある。

具体的には、雑誌やInstagramのようなカタログに載っているものを、好きなだけ体験できる状態にあること。

でも一方でそれは、ただ単に「広告」や「世間」に振り回されている状態とも言えそうです。

本当に自由である状態とは、自らと向き合っていく中で、「今の自分にはこれが適している」と、その瞬間ごとの自己の最適解を静かに淡々と選択できるようなひとだと僕は思います。

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そのうえで、常に開かれていることも重要だなあと感じています。

ひとは年齢を重ねるごとにドンドン頑固になってしまうけれども、そこで意固地になって引きこもるわけでもなく、一方で「老化」という現象に開き直って、世間や他者にその基準や主導権を完全に明け渡して委ね切っている状態でもない。

常にグラデーションのなかで、自己の適切なポジションを探り続けられる状態にあること。

「過去の自分」にとっての最高のものではなく、常に「今の自分」にとって最適なものを探り続ける求道的な姿勢こそが、僕にとって本当に自由だと思える状態です。

なぜなら、世界は驚くほど流動的であり、常にものすごいスピードで変化しているからです。これは決して比喩なんかではなく、地球が自転するスピード(時速約1700km)なんかがそれを強く物語っている。

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このような自由な状態が、僕らの経験している日々の日常生活の中で、一体どんな状態に一番近いのかを考えてみました。

意外だと思われるかもしれませんが、それがタイトルにもある通り「雨が降ったときに、自然と傘をさすような状態」なのではないのかなと。

たとえば、雨天の中でも「これが私のスタイルだ」と言って、意地になって傘をささないのは違う。

一方で、常に雨が降らないかと不安となり、雨天という状態に心が完全に執着してしまって、何種類もの雨具を常備し、晴れの日にも常に雨具を持ち歩くのも違う。

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日本という土地に生きていれば、雨は不定期で必ず降るものです。

だからこそ、僕らは雨が降ることをさほど気にして生きてはいない。

雨が降ったら降ったで、その天気に抗うわけでもなく、素直に「今日は雨か」と判断して、淡々と雨天と向き合うことができるはずです。

そこで気分を乱されて一喜一憂してしまうと、それこそ天に唾を吐くような行為だと理解しているから。

雨は雨として、ただただ受け入れて、まさに晴耕雨読するような感覚です。

このときに本当の意味で人は「雨から自由になった状態」だと言えるのではないでしょうか。

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この世界で起きていることはすべて、縁起によって生じていて、自然現象の延長だと捉えることができるのなら、「雨との向き合い方」のように世界と対峙することは、とても豊かで自由な状態であると僕は思います。

そんなことを考える今日このごろ。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。

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