対立矛盾する意見を持った者同士が対話することで、両者の主張を保存した第三の道を考える。

それが社会の発展へとつながっていく。

先日、ヘーゲルの弁証法をもとにブログに書いたお話です。



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しかし現代は、そのような対話がなかなか起きにくい世の中だと思います。

その一つの原因として挙げられるのは「無理に同じ空間を共有しなくてもよくなったこと」があるのかなと思います。

社会の流動性が高まり、インターネットなどを通じて、自分の居場所を簡単に横にスライドさせることができるようになったため、

反発したらスライド、反発しそうになったらすぐスライド。

そうやって従来のコミュニティ(会社や学校、地域や人間関係)に縛られる必要がなくなり、良くも悪くも他者との反発を簡単に避けられるようになりました。

だからこそ、3年ほど前に書いたように今の若い世代は下記のような価値観を持ちながらスマートに行動しているのだと思います。



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その結果、ある集団のなかで心理的安全性のある空間を設ける必要もなくなってきた。

具体的には「今日は無礼講だから、腹を割って話をしましょう!」といった空間も一気に減りました。

そんな面倒なことをするぐらいなら、横にスライドした方がいい、それが賢くて合理的な判断である思うひとが一気に増えたからなのでしょう。

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僕自身もこの社会の変化は当然の帰結だと感じ、特に何の違和感も感じていませんでした。

むしろ、煩わしい対話が減って、素晴らしい社会の変化であるとさえ感じていた。

ただ、この形の「多様性」を認めて、横にスライドを無制限に許容していくと、最終的には「変わらない私を認めて欲しい(認めてくれる場が欲しい)」になるし、

また一方で、他者に対しては「変わらないあなたを認めましょう」となり、最終的にはすべてが自己責任論になっていく。

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なぜなら、私が横にスライドし続けた結果、今この場にたどり着いたように、今あなたがいるその場所は、あなたがスライドした結果であり、

それがたとえどんなに残酷で地獄のような場所であったとしても、それはあなたが選択した結果であると言えてしまう。

いま「多様性」という世界的な大号令のもと、社会がそんな誤った「多様性」を認め合う方向性にドンドン向かってしまっているような気がしてなりません。

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本来、スライドして居場所を見つけられること自体が、ものすごく運的な要素が強いことだと思います。

たまたまそこに流れついただけとも言える。

自分の居場所を見つけられたひとは、単にラッキーなだけですし、今もまだどこにも流れ着くことができず、苦しんでいる人はたくさんいるはずです。

そもそもスライドする余裕がないひとだって(それは経済的にも精神的にも)、この世にはたくさん存在する。

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はるか昔、極東の日本がそうであったように、これ以上の東がなかったからこそ、対立しつつも最後はお互いの顔を立てながら、全体の調和を最優先し、その中で両者の主張を保存しながら第三の道を探った。

それが、世界に類を見ないこの日本の文化をつくりあげ、日本人の意思決定の方法として、現代にも脈々とまだ受け継がれている。

それがグローバル基準で見たときには悪い慣習のように捉えられがちだけれども、実はいま求められている手段でもあるような気がしています。

本当の意味での「和を成す」とは何か、自己責任論によって切り捨てない世の中のあり方を探っていきたい。

少し変わったお話ではありますが、そんなことを考える今日このごろ。

いつもこのブログを読んでくださっている皆さんにとっても今日のお話が何かしらの参考になったら幸いです。

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