先日、Wasei Salon内で、村上隆さんの『芸術起業論』の読書会が開催されました。

サロンメンバーのみなさんは、アーカイブ動画を見ることができるので、ぜひラジオ代わりに聴いてみてもらえると嬉しいです。個人的には、ものすごくおもしろい読書会になったと思っています。

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さて、この本を読み終えて僕自身は正直、村上隆さんの芸術活動自体にはあまり共感することができませんでした。

ただし、僕がこの本を読んで強く感じたことは、村上さんの生き方それ自体に明確な一貫性が存在していて、その生き様がまさに村上さんの「芸術作品」そのものに感じられました。

村上さんが生み出す各作品というのは、その手段にすぎないのだろうなあと。

そして、本来、人間ひとりひとりが作り出せる芸術作品って、究極的には「私の生き様」そのものであるはずです。

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この点、すぐに思い出したのは、思想家・内村鑑三が書いた『後世への最大遺物』という本です。

内村鑑三いわく、我々が残すことができる後世への最大遺物は「勇ましい高尚なる生涯」であると語ります。

お金や事業、またそこから生まれてくる思想や哲学も、立派な後世への遺物とは言えるけれど、これらは万人にとって遺すことが容易なものではない。

でも「高尚なる生涯」は誰しもが必ず追い求めることができて、それこそが後世に遺すことができる最大の遺物であると。

このお話は、本当に強く共感しします。

この本は、内村鑑三が34歳のときに語った講演録をまとめたものであって、本当に素晴らしい本なので、ぜひオーディオブックで聴いてみて欲しいです。

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じゃあ、そんな人間の生き様である「勇ましい高尚なる生涯」というのは、一体何が決めるのでしょうか。

僕はそれが、各人が必ず持ち合わせている「美意識」だと思います。

でも多くのひとは、自分の生きた証、そんな後世に残せるものが、お金や影響力などを獲得した先に得られる強大なパワーを使って生まれてきた「作品(事業)」そのものだと思ってしまう。

だからこそ、ひとはいとも簡単に、自らの「美意識」を捨て去ってしまうのでしょうね。

実際に、そのような自己のライフスタイルを表現し続けるために、仕事や人間関係の中で、自己の美意識を捨て去り、信念を曲げてしまうひとたちを実際に何人もこの目で見てきました。

でも、以前もVoicy内でお話したように、いまはもう「ライフスタイル」ではなく「ライフスタンス」のほうが見抜かれている時代であって、ライフスタンスとはつまるところ、自らの「美意識」を貫くこと、そのものだと思います。
そのライフスタンスを貫く上で、ライフスタイルにブレがあっても一向にかまわないではないのかなと。それは所詮、見栄や虚栄心のようなものに過ぎないのだから。

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そう言えば、先日読んでいた『今を生きる思想    エーリッヒ・フロム    孤独を恐れず自由に生きる』という本の中に、言い得て妙だなあと感じられる表現が書かれてありました。

以下で少し引用してみます。

それが何であれ、何かにエネルギーを向けたいという欲求は強く、それが行動の動機になる。これ以上に強力なエネルギーの源泉はなく、フロムはこれを「理想」と言い換える。 「人間には理想を持つか持たないかの自由はない。どんな種類の理想を選ぶかの自由があるだけだ」(前掲書)     すべての人間は理想主義者であり、物質的な満足の獲得以上の何かを求めているのである。

その例として、フロムは権力の崇拝およびその破壊、あるいは理性と愛にエネルギーを向けることなどをあげている。信じている理想はそれぞれに違う。しかし、それが「人間精神の最善」の表れであれ「悪魔的な表れ」であれ、それらはひとしなみにこの理想の表現なのである。


「人間には理想を持つか持たないかの自由はない。どんな種類の理想を選ぶかの自由があるだけだ」、これは本当にそう思います。

だとしたら、内村鑑三の考え方から導かられるように自己の美意識から生まれる「理想」それ自体が、アートであり自らの芸術作品だと言えるのではないでしょうか。

繰り返しますが、作品それ自体は手段やそのためのコマに過ぎないのだと思います。

ブレない生き方、それが芸術作品だとしたら、その理想を探求するためにどれだけ迷走したって良いと思っています。

だけど、決して「自分の美意識」だけは捨ててはいけない。

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ここで少し個人的な話になってしまい非常に申し訳ないのですが、先日、僕がとても尊敬している友人から「鳥井さんは迷走しているけれど、ブレていない」と言われました。

ご本人は、口が滑ってしまったと感じられたようで必死に謝っておられましたが、本当におっしゃるとおりなんですよね。

新卒ですぐに海外に渡り中国で働いていたかと思えば、日本に戻ってきてブログを書き始め、そう思ったら起業してウェブメディアを始めて、オンラインサロンまで手を出して、さらにはいまは毎日、音声配信までやり始めた。

自分でも客観的に見て迷走しまくりだと思っています。でも迷走したっていい、それよりもブレない生き方を貫いていきたい。

そして、その時に最後にたどり着いた場所から振り返ったときに、内村鑑三のいう後世最大遺物につながると僕は信じている。

だからこそ、この友人からいただいた言葉は、本当に心の底から嬉しかったんですよね。

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じゃあ、なぜいまこのタイミングで、このような非常に暑苦しい話を語っているのかと言えば、従来なら、絶対に実現不可能だった「美意識」が、いまweb3やNFTの誕生によって、その実現可能性の度合いが大きく変わろうとしているからです。

「社長、意外と頭の中はお花畑なんですね。そんなことよりも、今月の売上なんですが〜」とはぐらかされてしまうよな、これまでには夢物語だとバカにされるようこと、綺麗事だとバカにされるようなことが、もしかしたら実現可能になるかも・・・という状態になってきた。

従来だと大人になるにつれて、否応なしに捨て去らなければいけなかった美意識を捨てなくてもいいかもしれない世界が、今まさに目の前にやってきているんですよね。

それはイケハヤさんやしゅうへいさんが語る、CNPやLLACが掲げている世界観を追ってきた方々であれば、きっと共感してもらえると思います。

具体的には、価値感や信念が近い他者同士がお互いに信じ合って、ヒエラルキー構造はつくらずに、本当の意味で他者と共に創る「共創」をする世界観。

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まさか、こんな世界観を実現できそうになる日が、こんなにも唐突にやってくるなんて僕も思ってもみませんでした。

30代も半ばに入り、もっともっと現実主義的に、プラグマティックに生きるしかないと思っていた矢先の出来事です。

あと5年遅かったら、たぶん僕も自らの美意識なんかはとうに捨て去って完全に従来型の価値感に染まりきっていた自信があります。

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2022年の年末、今このタイミングにおいて、このズレに自覚的になることはものすごく大切なことだと思います。

少し前はできなかったけれど、これからはもしかしたらできるかもしれないし、やっぱりこれまで通り実現不可能かもしれない。

この未来を決めるのは、どれだけの人々が同時に「実現できるかもしれない」と腹の底から信じて、「理想」を共有し、共同幻想を抱くことができるのか、にかかっている。

そのような世界観の萌芽がいま生まれ始めている中で、従来型の「世間の美意識」を追求するのか、自分の中に常に存在しつづけてきた「私の美意識」を探求していくのか。

どちらを選んでもいい。これは本当に個人の自由だと思います。

でも僕は、新しく生まれ始めている手段にかけて、自らの美意識をこれからも淡々と死守していきたいなあと思います。

たとえその先にどんな想定不可能な未来が待っていようとも、です。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても何かしらの参考となったら幸いです。

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