「こんなこと言ってしまったら、誤解されてしまうかもしれない…」
「まだうまく言語化できないけど、なぜか気になる」
「結結論ありきだけど、なぜか直感的にそう感じている」
誰にでも、そんなふうに感じる気付きや発見ってあるかと思います。
それがいわゆる「下書き状態」になって、脳内に溜まっているという方もきっとかなり多いはず。
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この点、12月に入って、久しぶりにいくつか小さな飲み会(忘年会)のようなものに参加してみて、改めて気づいたことがあります。
飲み会中には、上述したような話がわんさかでてくるのです。
つまり、飲み会とは「それぞれの胸の内に秘めている下書きの公開の場」だったのだなと今になって強く思う。
飲み会後、参加したメンバーそれぞれ心なしかスッキリした顔のようになって帰っていくのも、きっとそのおかげなのだろうなと。
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そして、そんなふうにを考えてくると「リモート飲み会」のようなものが流行らなかった理由もよくわかります。
心の下書きは、電波に乗せたくないのです。
限られた人間、ここだけの話、相手の反応の機微もお互いが感じ取れる距離感だからこそ、素直に言えることがある。
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そう考えると、ここ1〜2年で下書きが増えたという人が増えたのも非常によく理解できる。
それは、社会の変化によって、自分の中に生まれる違和感が増えたのも間違いないのだけれど、飲み会が減ったことも大きな一因なのでしょう。
でも、その下書きは本来、知人にとっては最高おもしろいコンテンツ。だからこそ、気心知れた友人たちとの飲み会は盛り上がるわけですよね。
そして、赤の他人だったら不快極まりなく、誤解を受けて炎上してしまうような話であったとしても、気心知れた知人同士では決してそうならない。
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ではなぜ、このような違いが生まれてくるのでしょうか。
知人の場合だと、前提(コンテキスト)がある程度共有されていて、その直接の意味性だけでなく、「なぜそんなことを彼(彼女)は考えたのだろうか?」というメタメッセージも同時に読み取ろうとするからなのでしょう。(聞き手の読み取る姿勢を、話し手が期待できる)
「顔」の見える相手に対して、お互いが自然と歩み寄るそんな姿勢が、下手な誤解を排除してくれて、より一層おもしろいものに感じ取らせてくれるのだろうなあと。
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思うに、「本当のおもしろさ」や「その人ならではの貴重な発見」というのは、まだまだうまく言葉にまとまりきらないそんな下書きの中にこそ秘められている。
なぜなら、自分しかそう思っていないかもしれないということは、社会に向けて発信しづらいことだから。
つまり、「私が偶然探し当てた貴重な何か」というのは、そんな紙一重のところに存在しているわけです。
それを、「この人たちになら素直に言えそうかも」とポツポツと言葉にし始めたときに、自然と言葉になって自らの中に立ちあらわれてくる。
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だとすれば、その下書きを公開できる場や関係性を築いていくことは、非常に重要なことなのではないでしょうか。
それをリアルの飲み会のような場に求めるのは、まだまだ難しいかと思います。
きっと昔なら、教会や神社仏閣のような「神仏」もその聞き手の役割を果たしていたのかもしれない。
でも現代は、神仏の存在を信じられるような人も減ってきた。
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僕の場合は、このサロン内にそんな下書きのような思考を定期的に書き残すようになりました。
予想どおり、誰にも届かないことのほうが多いですし、誤解を生んでしまっている可能性も十二分にある。
でも、他者に伝えようとしたときに生まれる「なぜそう思ったの?」と自らに問う瞬間や、やっぱりまったく伝わらなかったという失敗した経験が後々になって役に立ってくる。
飲み会同様、「なぜあの話は、まったく伝わらなかったのだろうか?」という時間を隔てた反省が、自らの思考の偏りも発見させてくれるから。
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思考を熟成させたり発酵させたりするために、ある程度の下書きを自分の中で常に保管しておくことは非常に重要です。
しかし、その下書きをあまりにも溜め込み過ぎてしまうのは身体に良くない。
それは心奥深く、澱のように降り積もっていき、ストレスにもつながり、精神衛生上良くありません。
下書きを小出しにしていく関係性の再構築。社会の構造がガラッと変わってしまったような今のようなタイミングだからこそ、とっても大切なことのような気がしています。
いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても、今日のお話が何かしらの参考になったら幸いです。
2021/12/27 11:18