他人の時間を使わせていただいているという「負い目」や「借り」の感覚を持つことの重要性を、最近つくづく感じます。

たとえば、対話会や他者に相談する場面において「どうぞゆっくりとお話しください。私はあなたの力になりたいのです。私にできることは何ですか?」という聞き手側のスタンスがあったとします。

この優しさに甘えて、際限なく話し続けることと、その優しさに感謝しつつも、相手の時間にも同時に慮り、その「借り」を意識することはまったく別次元の話です。

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ただ、多くの人は、この状況に直面したとき、どうしても二項対立的な考え方に陥りがち。

ひとつは、借りや負い目の方ばかりを意識しすぎて、「自分なんかが話す価値はない」と過度に萎縮してしまう。

もう一方は逆に、相手の優しさに甘えて、際限なく話し続け、相手の時間を奪っているという実感すらもなくなってしまう。

しかし、本来これらは両立できるはずなんです。

具体的には、安心をしつつも、同時に緊張感も持つこと。

相手の時間をいただいているという意識、その強い自覚を持ちながら「借り」の意識を持ち合わせたうえで、ゆっくりと安心しながら話すこと。

この両立が、実は非常に重要な要素だと思っています。

言い換えると、これが健全な関係性を構築するうえで、非常に大切な基盤になると思うのですよね。

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この「借り」の意識は、ビジネスの世界、特に買い手と売り手の関係にも通じる部分があると思います。

かつて「お客様は神様です」という言葉がよく使われましたが、現代ではこの考え方に疑問が投げかけられることも非常に多くなりました。

しかし、本質的な部分、つまり顧客により良いものを届けようとする姿勢や、顧客を敬う気持ちの重要性は決して失われてはいないはずなんですよね。

それでも、「お客様は神様です」という考え方が批判されてしまう本当の理由は、一部の顧客がこの立場を利用して、不当な要求をするケースが一気に増えたからだと思います。

しかし、これは本来の意味を誤解した結果であって、健全な顧客と企業の関係性とは別物であるはずです。

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本来、商品やサービスを提供する側と、それを購入する側の関係はお互いに「借り」がある状態だと言えるはず。

具体的には、企業は顧客から対価をいただいて商品やサービスを提供させていただいているという意識を持ち、顧客は自分のニーズを満たしてくれる商品やサービスを提供してくれることへの感謝の気持ちを持つこと。

このバランスが取れた関係性こそが、持続可能なビジネスの基盤ともなるはずなんです。

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ただ、ここで強く強調しておきたいのは、この「借り」の意識は決して義務ではないということです。

あくまでも道徳や倫理の問題であり、法的な返礼義務があるわけではありません。

しかし、この義務ではない「借り」の意識を持ち合えているかどうかが、健全な関係性やコミュニティを築く上で非常に重要になってくると思うんですよね。

そして、ここが今日一番強く強調しておきたいポイントです。

お互いに「借り」を「借り」だと認識できていること。それが持続可能なコミュニティにおいて必要不可欠なものだと思います。

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この点、現代社会における左派リベラルの主張に対して、僕がいつも強く違和感を抱いてしまうのは、まさにここにあります。

今の世の中には、確かに多くの不均衡な構造がありとあらゆる場所に存在します。

そして、そのような不均衡を指摘し、「私達は不当に搾取されている!」と主張する左派の声には、間違いなく正当性があります。それはいつだって、圧倒的に正しい。

しかし、その権利があるからといって、その権利の上にふんぞり返ってよいわけではないかと思います。

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例えば、誰にでもわかりやすい親子関係を例に考えてみたい。

親には子どもを育てる法的義務があります。しかし、だからといって子どもが親に感謝の気持ちを持たなくてよいわけでは決してない。

ただ、親はその感謝を子に強制することはできません。なぜなら、それは親としての義務だから。

この親子関係のように、社会の中にはさまざまな非対称な関係性が存在しています。

そこで重要になってくるのは、このようにたとえ法的な権利があったとしても、相手への敬意と「借り」の意識をお互いに持ち続けることが大事になるなと思うのです。

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親子関係は多少特殊な関係かもしれませんが、社会人同士の関係においても、この「借り」の意識は非常に重要だということは、このことからもきっと理解してもらえるかと思います。

お互いに気持ちの良い敬意を持ち合い、相手を慮り、寄り添い、互いにケアをすること。

そして、一見すると非合理的に見えるかもしれませんが、

「そんなこと言うなよ、水臭いなあ。」
「いやいや、ちゃんと返させてよ!」

このようなやりとりが存在すること自体が、健全で持続可能な関係性を生み出すはずなのです。

このようなや明らかに非合理で「無駄」なやりとりを、形式だけでなくその本質的な意味合いを通して理解しあって大切にできるコミュニティこそが、長期的に見たときに、健全に機能し続けるはずなんですよね。

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コミュニティにおいて最も危険なのは、誰かが「与えられて、当たり前」だと思い始めることです。

これは関係性の破綻につながり、コミュニティの持続可能性を失わせる要因となってしまいます。

以前もご紹介した内田樹さんの言葉を借りれば、「全員がちょっとずつ持ち出しをしているぐらいの感覚を持ち合えているコミュニティ」が最も健全で持続可能なはずなんです。

つまり、誰もが少しずつ持ち出しをしながら場に対して貢献し、同時に誰もがその貢献に感謝し合える状態が理想的。

もちろん、そこには一定数のフリーライダーも必ず発生する、それは致し方のないことです。

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また、興味深いことに、この「貸し借り」の関係性自体が、相手の尊厳を高める作用があるというふうに僕は思っています。

つまり、一方的にケアをするのではなく、相手からも適度にケアしてもらうことが、実は対等な関係性に置いて非常に重要なことなんですよね。

これは「抱樸」の奥田知志さんの考え方として、以前もご紹介したとおりです。


相手の「借り」に対する返礼を素直に受け取り、「ありがとう」という気持ちを持つこと。これが相手の尊厳を守り、高めることにつながるはずです。

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ただし、ここで注意すべきことは、この「貸し借り」を客観的な基準で、等価交換として評価しようとしないことなんですよね。

当事者間の合意があれば、それで十分なはずなんです。

たとえば、親が子育てに費やす時間、お金、労力は計り知れません。子どもがそれを同じ形で返すことは原理的に不可能です。

しかし、子どもが幼稚園で描いた親の似顔絵や手作りの肩たたき券なんかは、親は等価以上の喜びを感じることができるはず。大切なのはその真心のやりとりであって、金銭的な対等さや、時間的な均等さはその本質ではないはずです。もちろん時間を超えた親孝行だって存在するはずですし、そもそも健康で生きていてくれることで十分だということだってあり得る。

現代の夫婦関係においては、家事や育児や生活にまつわるありとあらゆる労働を完全に均等に分担しようとする姿なんかを見ると、やや危うさなんかも感じてしまいます。

家庭の中に第三者が存在するわけでもないのに、客観的な等価交換、つまり取引的な価値観が無意識のうちに、そこに介入してしまっているわけですからね。

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Wasei Salonに集まってくださっているみなさんには、ぜひともこのような「借り」の意識をお互いに持ち合っていて欲しいなあと思います。

そして、それぞれが置かれている立場や範囲において、少しずつでも「持ち出し」をしてくださると、本当に心の底から嬉しいです。

そうやって互いに持ち合うからこそ、生まれる居心地の良さみたいなものは間違いなく存在するはずですから。

もちろん、僕自身がそれを当たり前だと思わないことも大前提だと思っています。

みなさんのそれぞれのスタンスから生み出してくれる「持ち出し」に対して、僕は常に圧倒的な「借り」の意識を持ち続けていたいと思います。

そして、この「借り」を一生涯かけて返し続けていかなければいけないとも考えています。

ただ一方で、実はこの「借り」を返し続けるという状態こそが、本当の意味で満たされている状態だとも思うんですよね。それが昨日の「縦の系譜」の話にも間違いなくつながっていくはず。

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なにはともあれ、お互いの権利の正当性を主張し合って奪い合うのではなく、お互いに日常的に感謝をし合い、「借り」を意識し、互いに貢献し合うような関係性。これこそが、健全で持続可能なコミュニティの姿だと僕は思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。