今朝、こんなツイートをしてみました。

彼女たちのような存在がいなければ「出雲大社」という場所が、今もあのような規模感で存続し続けているかは、正直かなり怪しいと感じています。

つまり、往々にして歴史的な「文化」というのは、そういった本筋ではない「フラペチーノ的なもの」に支えられてきたんだなあと。

伝統的なカウンター寿司に対しての「回転寿司的なもの」と言い換えても良いかもしれません。

何事においても、こういう二重構造をしっかりとつくれるかどうかという点に、その文化が長く続き、現役として残り続けられるか否かということがかかっていて、非常に大切な視点だなあと思っています。

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もし、表面的なものだけだと中身が空っぽだと思われてしまいますし、学術的なものだけだと、大半のひとにとって、私にはまったく関係ないと思われてしまいかねないから。

でもだからといって、偏差値が低そうなただの劣化版を「カジュアル」とか「ポップ」とか言って無駄に崇めてしまうのも、絶対にやめたほうがいい。

それは、どちらに対しても失礼だと感じます。

カジュアルにはカジュアルの一流があるし、ポップにはポップの本気がある。

「どうせ、こんなもんで良いんだろう」という態度は、各方面に対して「敬意」がないなと感じますし、そのようなことを実際に口にしなくても、すぐに空気でバレてしまいます。

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この点、行政の施策によくありがちな、その時代ごとに流行っているギャルやジャニーズ的な存在を起用して、適当にお茶を濁すようなことが、一番の悪手だなあと思います。

「ゆるキャラ」なんかもそうかもしれません。

そして、そのような行政の失敗を眺めては「あんなものはまるで本質的ではない。くだらない!」と一蹴して、「フラペチーノ的なもの」を完全に排除する動きなんかも、同時に本当によく目にします。

まじめな人々だけが集う、民間の施策なんかに非常によくありがちなことです。

そうすると、今度はリテラシーの高い知性的なひとだけしか興味を持つことができず、結果的に本当に一握りのひとしかその場に訪れなくなって、裾野が広がらず、文化自体が完全に廃れてしまう。

どちらの方向からのアプローチであっても、そうやって貴重な文化を殺してしまうわけです。

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大事なことは、どちらに対しても最大限の敬意を持ちながら、この両輪をしっかりと駆動させていくことだと思います。

たとえば、今の国内のNFTのミーム的な流れも、表面的な部分を構築してくれているんだと思えばきっと好感を持てるはず。

NFTの社会変革的な側面に興味をもっていたひとたちからすると、「なんだ、結局またお金配りや、金儲けに逆戻りかよ…!」って思ってしまうかもしれないけれど、しっかりと裾野を広げていくうえでは、必要な過程なのだと思います。

むしろ、NFTの社会変革的な側面が見えてきたからこそ、このような裾野を広げる作業にもしっかりと着手できるようになってきたとも言えるわけですよね。

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そして、最近よく思うのですが「コミュニティ」や「共同体」の文脈においては、みんなで一緒に「少年ジャンプ」をつくっているんだというような気概を持っていけば良いんだろうなあと。

『ドラゴンボール』や『スラムダンク』、『ワンピース』や『HUNTER×HUNTER』など、人生訓を教えてくれる哲学書や思想書も顔負けの王道の少年漫画もあれば、

『すごいよ!!マサルさん』や『世紀末リーダー伝たけし!』『花さか天使テンテンくん』のような王道のギャグ漫画もある。(世代がバレる)

そうやって、多くの人々が少年時代に興味関心を持つような事柄が、毎週発売される1冊の雑誌の中にすべてが詰まっていて、それぞれがそれぞれの「思想」や「哲学」を最大限に発揮してくれるマンガが揃っていて初めて、「少年ジャンプ」という世界観が完成するわけですよね。

このように、さまざまな興味関心を持つ読者に多方面から買い支えられているからこそ「少年ジャンプ」という文化が、今も現役でこれほど長く続いているとも言えるわけです。

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であれば、当時の少年時代の僕らがそうしていたように、自分に興味関心がない作品は、淡々と読み飛ばせばいいだけだと思います。

わざわざ文句をつける必要もなければ、それを改善しようとするために何か社会運動的なものを起こす必要もない。

大事なことは、それぞれがそれぞれのジャンルの中で本気を出して、お互いに敬意を持ち合いながら、一流を極めていこうとする姿勢なんじゃないでしょうか。

文化をしっかりと創りだし、それを後世に残していくことが、その場に集う全員に共通する目的のはずなのですから。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。