先日、こんなツイートをしてみました。

それでも、今回のこんまりさんのような他人の路線変更に文句をつけたくなってしまうひとは「自分が常に気を使っているのだから、おまえも気を使え!」という同調圧力だったりする。

でも、自らにとって「他人のライフステージに通用しない信念は、軽々しく主張するべきではない」ということが私にとって大切な基準なのだと思うのであれば、自分が粛々とそれを守ればいいだけ。

そのような「美意識」は、他人の行動に対して文句をつけるために存在しているわけではありません。

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それがわかっていてもなぜ、それに文句をつけずにはいられないのでしょうか。

それはきっと、美意識ではなく、私の「呪い」になっているからですよね。

だから他人の浮気などにも、文句つけているひとが後をたたないのだとも思います。

そうやって、他人に厳しく制裁を与えて行動変容を求めるひとというのは、実は自分自身がそのことに対して、完全に執着してしまっている場合が多いです。

もちろん、過去の僕だって例外ではありません。

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だからこそ、一番危険なことは、世間からの評価を恐れてしまい、自分の発言の一貫性を気にし過ぎるがあまり、もう自分の中では「なんか違う…」と思いつつも、その考え方を改められないことのほうだと思うのです。

自分が他人の路線変更に文句をつけたくなったら、その矢印をくるっと自己のほうに向けて、ハッとしたほうがいい。

大抵のひとは、世間から批判されるのを恐れて、変化している自分のほうを完全に無視して、世間が求める主張の一貫性のほうに執着してしまいますからね。

でも、それが本当に一番やっちゃいけないことなのだと思います。

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これは決して今に始まったことではなく、それこそ、孔子の論語の時代からずっと語られていることでもある。

養老孟司さんは、このことを非常にわかりやすく語ってくれていました。

養老さんの新刊『ものがわかるということ』という本から、少し引用してみたいと思います。

『論語』の「 朝 に道を聞かば夕べに死すとも可なり」という言葉があります。朝学問をすれば、夜になって死んでもいい。学問とはそれほどにありがたいものだ。普通はそう解釈されています。でも現代人には、ピンとこないでしょう。朝学問をして、その日の夜に死んじゃったら、何の役にも立ちませんから。     私の解釈は違います。学問をするとは、目からウロコが落ちること、自分の見方がガラッと変わることです。自分がガラッと変わると、どうなるか。それまでの自分は、いったい何を考えていたんだと思うようになります。     前の自分がいなくなる、たとえて言えば「死ぬ」わけです。


つまり「他人を殺すな、学び続けて、自己を殺し続けろ」ってことなのだと思います。

いや、もはや殺す必要さえないのかもしれません。

既に死んでいるものを、無理やり引きずっていこうとするなってことなのだろうなあと。

それはもう自分ではないのだから。

でも、死んでいるものに対して、周囲から見たときの一貫性や同一性の呪いがそれを邪魔するわけです。

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この点、少し話は逸れますが、また別の視点から「違う」ものを、空気を読んで「同じ」だと思わされているその欺瞞に違和感を感じている雰囲気を最近強く感じます。

それが、いま人々が漠然と「優先されたい」し「優先したい」って思い始めている空気感の中にあるように思います。

言い換えると、「ご贔屓されたい」と願うお客さんが増えていて、販売者側も同様に「ご贔屓したい」という感覚を持ち始めてきているということ。

たとえば、NFTにおけるAL磨きなんてその最たるものだし、ローカルの小商いなども少しずつ増えてきていることなんかもその大きな要因なんだろうなと。

これもきっと、行き過ぎた「同一性」を重視する、観念的なポリティカル・コレクトネスの揺り戻しなんだろうなあとも思います。

国家や自治体、それに匹敵する大企業のメーカーなんかはご贔屓なんて絶対にできないことだけど、それが「タテマエ」であるという欺瞞的な匂いを感じ取っているひとが非常に多いということなのでしょうね。

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どう考えても、目の前にいるお客様は、間違いなくひとりひとり明確に「異なる」存在にもかかわらず、それをすべて「同じ」だと捉えるマニュアルがあることに大きな違和感を感じてきてしまっているように僕には見えます。

すべてのお客様を平等に、なんならお客様番号だけで管理をして、お客様の顔は一切見ることなく全員にまったく同様のサービスを提供できることこそが、プロだとされてしまっている。

この点、こちらもまた養老孟司さんの別の本からの引用になりますが、養老さんが強いフェミニズムとポリコレの関係性について、以前非常に面白いことを書かれていました。

以下、は『遺言』という新潮新書からの引用となります。

たとえば、強いフェミニズムは、感覚で捉えられる男女の「違い」を無視し、なにがなんでも男女を「同じ」にしようとする。「病」というしかない。「同じにする」がどんどん強くなって、信仰の域に達する。それがアメリカの「リベラルという病」だ、ということになる。 「同じにする」ことが間違っているのではない。ただし感覚は「違う」という。その二つが対立するのは、そう「見える」だけで、そこには段差があるのだから、両者を並べることはできない。まずそのこと自体を「意識」したらどうですか。それがいわば私の 拙い提案である。     さすがに「違い」を無視することは完全にはできない。だから「同じにする」論者も単純に「正しい」と言えず、ポリティカル・コレクトネスなどという言葉を創らなければならなくなる。


ここで決して誤解しないで欲しいことは、同じにすることが間違っているのではなく、感覚が「違う」と言っているのに、それをポリコレや社会的な炎上に恐れて、自らを騙し続けていることにもう耐えきれない、そこに強い違和感を感じているひとたちが増えてきた、そのフェーズがまさに今なんだろうなあということです。

それは、目の前の人間を差別したいからでは決してありません。

こちらが感謝したくなるぐらい立派なお客様と、今すぐにでも目の前から消え去って欲しいクレーマーを「同じお客様」として扱わなければいけないということに対する、強い違和感なのだと思います。

つまり、前者のほうにちゃんと感謝の念を表明したいということなんだと思う。

それは「返報性の法則」ぐらい根源的な人間の欲求なのだと思います。

理性やポリコレのような正論で、脳を騙しきれることではない。なぜなら、ご贔屓って相手に対して、余人を持って代えがたいと相手に対して伝える行為だからです。

そして、敬意っていうのは、他でもなくあなたでなければいけないということを伝えることなのだと思います。

それは以前、内田樹さんも非常にわかりやすい言葉で語られていました。

参照:「目の前の相手に敬意を示す」という文化をつくりたい。

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いま僕らは、少しずつ、観念的な「同一性」の呪縛から解き放たれてきて、目の前の事象をひとつひとつしっかりと感じ取り、日々自己を殺していくことが学びであると自覚的になりつつある。

そして、目の前にいるひとりひとりを、ちゃんと顔のある存在として捉え直していきたいと無意識下で感じ取っているはずです。

これが悪用されれば、日本版ドナルド・トランプのような存在が誕生するでしょうし、これをちゃんと正しく理解すれば、世界に先駆けて次のフェーズにコマをすすめるができる新たな価値観をもった世界のお手本のような国家になれるように感じています。

果たしてどちらに進むのか。今年から来年あたりが、明確な分岐点になりそうです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。

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