https://twitter.com/hirofumi21/status/1205031501089214464
『こころの対話 25のルール』という本に書かれていた一節です。
この表現は、本当に唸ってしまいました。
ただ、僕らはこの事実を知ってもなお、他者とビジョンを共有することができない。
それはなぜなのか?
今日はその理由をこのブログでも考えてみようかなと。
〜〜〜
著者の伊藤守さんは、こう続けます。
ー引用ー
相手の話を聞くことを、最終的には、相手を受け入れることだとか、相手の希望をかなえることだと思っているから聞けないのです。
相手が言いたいことについて、相手と同じビジョンをもっていくこと――それが、「聞く」ということです。両者が互いに、相手と同じビジョンを共有できたとき、ふたりははじめて同じ地点に立てるのですから。
そして、たとえ、そのビジョンに自分は賛成できないとしても、相手と同じ「いまここ」という瞬間を共有していることの喜びを感じるのです。
ー引用終わりー
またここでも、「いまここ」が現れました。
本当にこの部分は一語一句、同意です。
「相手の話を聞くことに徹することで、自分の考えや、スタンスが変わってしまうかもしれない…。」
そんな不安や恐れが僕らの心の中にあるから、相手の話を聞けないのです。
究極のところ、「自分という人間が変わってしまうのではないか?」それに怯えて、僕らは自分の話ばかりをしてしまうんですよね。
でも、実際に相手の話を聞くだけでは、自分が変わったりなんかはしません。
客観的に考えれば、容易に理解できることなのに、それがいざ相手を目の前にしてしまうとなかなかできない…。
そして、ここが本当に重要なところなのだと思うのですが、
自分の山と、相手の山は同時に存在し得るんです。
決して山は一つではない。
この場合、山は「正義」と言い換えてみてもいいかもしれません。
だからこそ、本当に大切なことは、自分の山を大切に誇りに思いながら、相手の山のことも全力で想像することなのだと思います。
そして、本当の意味で相手を「尊敬」する。それがとても重要だと思います。
参照:相手の関心事に関心を寄せる重要性。 http://inkyodanshi21.com/subculture/studio-ghibli/10547/
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著者の伊藤守さんも、さらにこう書かれています。
ー引用ー
実際、わたしたちは、かなり正確に素早く、相手のビジョンをもつことができます。それだけの「感受性」をもっています。でも、安心感のない状態では、自分を守ることに精いっぱいで、相手のビジョンをとらえようとすることができません。
もし、相手のビジョンを自分ももってしまったら、自分というものが損なわれてしまう相手の言いなりになってしまう、と思い込んでいるからです。だから、相手のビジョンを感じなくてすむように、感受性を抑圧し、相手への関心を抑圧しているのです。
ー引用終わりー
本当に素晴らしい本だと思いました。
今日ブログで紹介した部分が気になった方は、ぜひ本書もあわせて読んでみてくださいね。
参照:こころの対話 25のルール (講談社+α文庫) 講談社 https://www.amazon.co.jp/dp/B00BP76POW/ref=cm_sw_r_tw_awdo_c_x_.5U8Db9GNGYK7
いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても、今日のお話が何かしらの参考になったら幸いです。