目のまえのひとが言っていることや、社会でニュースになっていることに対してなんだかモヤモヤしてくるという感覚は、誰もが頻繁に経験している感覚かと思います。

そのときに、ひとは無意識のうちに相手のなかに原因を求めてしまいがち。

でも実際は、相手に100%の原因があることなんて、まずあり得ません。

大体そう思わされているときは、手前側の議論ばかりに目を向けさせられているときであり、それは自ら考えているようで、誰かにとって都合の良いニュースやゴシップを単に「消費」させられているだけだったりします。

本当に大事なことは、もっともっと手前側にある。

具体的には、その場の全員が前提として持ち合わせている「共通認識」として一致している部分から疑って考えてみる必要がある。

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この点、書籍『ヒトの壁』において、著者の養老孟司さんの話が実例としてわかりやすかったから、ここで少し引用してみます。

東京五輪・パラリンピック組織委員会会長だった、森喜朗元内閣総理大臣がJOC臨時評議員会で女性蔑視発言をしたと話題になった。「女性理事を四割にしろと文科省がうるさく言うけど、入れてみたら、女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」と失言したと言う。
(中略)
ただ、ここでもっとも気になったのは、森さんも、それを批判するマスコミの論調もすべてが、「会議が長いのはダメ」と前提を一致させていること。「女性が多い委員会の会議は時間がかかる」という発言においては、森さんにはなにかしら長年の経験値があるのだとしたら、その統計的な根拠はだいたいなんなのか。マスコミはエビデンスを何事にも求めるのに、なぜこの問題では追究しないのだろう。そもそも、過去に開催しているとはいえ、時代も変わって、コロナ感染拡大下での五輪開催なんて、いくらでも議論すべきことはあるはず。違いますかね。


この話題で本当に考えなければいけないことは、こちら側にあると僕も思います。

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そういえば先日、人気Podcast番組「コテンラジオ」を聞いていたら、出演者の深井さんが以下のような趣旨の発言をしていました。

「常に倫理問題で裁かれる感覚があるんだよね。誰が良い悪いの話をしていないんだわ。ほとんどのひとが勘違いしているけれど、悪人だからやっているのではなく、構造や社会環境がそうさせている。ここを超えないと、人類は次のフェーズにいけない感覚がある」(要約してあります。厳密な内容は下記の配信回で、実際に直接聴いてみてください)


参照:#268 義和団事件 〜フルボッコにされる清国を占領し続けるロシアが引いた開戦の引き金〜【COTEN RADIO】

この話も、本当にそのとおりだなあと思いながら聴かせてもらいました。

多くのひとが、世の中には「善と悪」の絶対的な基準が存在し、それに準じて「善人と悪人がいる」という安易な思い込みを抱いてしまっている。

そして、この場において誰が悪人なのかを「空気」で決定させて、それが確定したタイミングから全員でその人間のことを叩いて良しとしてしまう。

そんな日本人の愚かさは、もうずっとずっと何一つ変わっていません。

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だからこそ、そろそろ「構造」や「前提」のほうに目を向ける必要があるのだと思います。

そのためには逆説だけれども、倫理の歴史や、倫理の変遷にもしっかりと興味を持たないといけない。

さもないと、自分がいま持たされている倫理の「ものさし」や、他人がつくった新たな倫理の「ものさし」だけで判断させられてしまうから。

それらは、本当に簡単に古びてしまうものなのにも関わらず、です。

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自分の目のまえで何か議論が始まったら、その議論をしている全員が暗黙の了解として共通認識を持ってしまっている部分から疑ってみる。

そして、無意識のうちに前提となっているその認識について、しっかりと場にも提示してみる。

この意識を持つだけで、誰かひとりを悪人にして叩くということをしないで済むようになるかと思います。

ただし、今そんな前提をこの場に提示したら、間違いなく怒られそうだと思ったら、スッと立ち去ったほうがいい場面というのもあります。それこそ「空気を読め!」って怒られてしまいかねないから。

そのあたりの判断はどうか念入りに。

このような前提の議論をしても許されるコミュニティに属することが、これからは何よりも重要になってくるとも思います。

今日のお話がいつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、何かしらの参考となったら幸いです。