「方法論を学ぶところは、みんな同質化に向かう。答えを欲しがってしまうから」

昨夜、サロン内で開催された読書会のなかで参加されたメンバーの方が仰っていて、とても印象に残っている言葉です。

「熱狂を生もうとしたときに支払わされる代償はこれか!」と強く膝を打ちました。

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たとえば、地域の「お祭り」なんかを想像してみてもらえると、きっとわかりやすいかと思います。

お祭りにおいて、参加者ひとりひとりの「個性」は不要です。祭りの熱狂を生むためには、とにかくたくさんの人間がそこに集結していればいい。

だからこそ、「形式」や「様式」をいつも以上に重視する方向に向かうのだと思います。誰がやっても同じになるように。

数の論理だけを重要視する「儀式」というのは、必ず参加者は没個性的な方向へと向かわせるのです。お葬式なんかもそうですよね。

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教祖とそれに熱狂すると信者という構造も、全く同様です。

何かその場に大きな熱狂を生み出そうとしてしまうと、必ず具体性の帯びた「方法論」を喧伝してしまうことになる。そのほうが、迷える人々がその場に集いやすくなるから。

しかし、そこに集まってくる人たちは必ず同質化してしまうという代償も支払わなければいけなくなるのです。

そうやって、何か答えを求めるようなひとたちはドンドン同じ振る舞いをする人間になっていく。

最近だと、Twitterで似たような構文で投稿されるアカウントが雨後の筍のように現れるのもまさにソレでしょう。ファンクラブ型のオンラインサロンなんかで生まれる熱狂もまさに、この弊害に必ずぶつかってしまう宿命にある。

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誰かが掲げた方法論や、イデオロギーに集い熱狂することは、必ず同質化に向かってしまう、それは人間の脳や「理性」の仕組みとして、仕方のないことなのだと思います。

本来はまったく異なるものを、同じ◯◯だと認識して、並列化していくことが脳や理性の本質的な役割でもあるのですから。

たとえば、「りんご1個 100円」と書かれた張り紙があって、そこにたくさんのりんごが並べられていたら、それらひとつひとつはまったく異なる「個体」にもかかわらず、すべて同じ「りんご」だと見なして、すべて同じ「価値」だと考えることができるのは、人間の脳のなせるわざであり特徴です。

それによって社会がうまく機能している側面も間違いなく存在します。

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でも、だからこそ僕は、熱狂の方向にだけは向かわせたくない。

熱狂の方向に進めたほうが、コミュニティとしては必ず活性化していくとわかっていても、です。

ひとりひとりが淡々と問い続ける、歩み続ける。できる限り同質化を避けて、むしろお互いの違いのほうを尊重する方向に意識を向けていきたい。

参照:それぞれの人生を歩み続ける「散歩仲間」に出会うこと。

きっとその中では、「わかり合えない」という状況が必ず発生してしまうでしょう。

でも、その「わかり合えなさ」こそ、大切にしていきたいと思います。

なぜなら、「わかり合えない」こと自体が悪なのではなく、その結果として人々が絶望し、分断や差別、戦争に向かうことが問題なのだから。

本質的には、人間は全員がわかり合えなくて、孤独になるのは当たりまえなのです。ひとは生まれてくるときも、死んでいくときも必ず独りなのだから。

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「わかり合える」という期待のもとに集い、熱狂し、同質化していくという共同幻想こそが、現代社会の様々な諸問題を引き起こしてしまっている。

ものすごくハッとした気付きだったので、今日のブログにも書き残しておきました。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。