最近、強く思うことのひとつは「定期的に一緒に散歩するぐらいの関係性」が実は一番心地よいのではないかと思います。

どうしても現代人は、親たちの世代やメディアから強い影響を受けて、無意識のうちに他者との「深いつながり」を求め合ってしまうけれど、実はそれってもう完全なる幻想なのだろうなあと。

今ぐらい変化が激しく、自己や他者が常に大きく変化し続けて、それを取り巻く環境もドンドン変化していく中では、人間同士の深いつながりを維持し続けられるのは、きっと長くても7~10年程度です。

それを超えると、どちらかの変化を抑制し、緩やかに束縛することになりかねない。結局、そこには必ずギスギスした抑圧的な空気が生まれてきてしまいます。

だとしたら、自己や他者の違いや変化を素直に認め合って、相手の人生を尊重したうえで、お互いがお互いの決断やその歩みを遠くから見守り合っているような関係性を構築していくことのほうが、実は心地よいつながりなのではないかと思うのです。

それは、決して「強いつながり」ではないけれど、無縁になるわけではない。

共に、それぞれの人生をそれぞれに歩んでいる「同志」という、緩やかな縁を継続している感覚になるなあと思うのです。

それが僕の思う「散歩仲間」との関係性です。

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そんなことを考えているときに、この三連休で Wasei Salonの合宿が開催されました。

今回は、コミュニティマネージャーの長田さんが今年移住された広島県の小さな港町・鞆の浦に、有志のサロンメンバーが集いました。
この合宿の最中、僕は終始メンバーと一緒に散歩しているような感覚になったのです。

実際、鞆の浦の町中を数時間かけてゆっくりと歩き回り、歩数にして一日に1万5千歩以上。

道中では、同じ絶景を観てハッとするという体験を何度も共にしました。まさに下記のツイートに以前書いたような体験です。
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都会やオンラインだけの空間だと、どうしても「言葉」を用いて、人と人とが同期していくことが多いかと思います。

しかし、自然の中を共に散歩していると、自己や他者を取り巻く環境、そんな自然を介在させた身体感覚を通して、それぞれの人間同士が同期していく感覚になるのです。

「ああ、こういうことだよね」っていうことが、その場にいる人間同士にはハッキリと理解できるというような。

鋭い言葉をたくさん重ねてみても、決して伝わらないことが伝わる感覚が、自然を介在してつながる感覚には間違いなくあるなあと。

歩き続けているその刹那、刹那を共有するだけで、相手を説得するための多くの言葉は必要としない。

もちろん、共に歩いてはいるけれど、相手に意識を向けすぎるわけでもなく、それぞれがそれぞれの人生について内省しているという感覚が常にありました。

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今年の7月に開催された鹿児島合宿のときにも感じましたが、メンバー同士、お互いにとって利害関係が強すぎないことも、また功を奏しているんだろうなあと思います。
距離が近すぎて、深いつながりの人たちに対しては、どうしても話せないこともある。

距離が近すぎないからこそ、普段あまり言葉にしてこなかった感情や、ふわふわと今考えていることを言葉にして、そこから何気ない対話や問いが生まれていく。

散歩や合宿が終われば、その場で語り合ったことをまたそれぞれが携えて、バラバラになって各々の暮らしや仕事に戻っていきます。

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Wasei Salonは、これからの「はたらく」を問い続ける対話型コミュニティと掲げて活動していますが、ここで言う「問い続ける」とはつまり、平坦な道をそれぞれに歩み続けるということなのかもしれません。

そこにわかりやすい明確な「到達点」があるわけではない。

人生を、崖登りとか川下りとかに見立てて明確なゴールを目指して強い刺激を求め合うコミュニティではなく、共に散歩しながら、考えて、対話し続けるひとが集まるコミュニティが、このWasei Salonというコミュニティなんだろうなあと。

人生を通して「現地集合、現地解散」ぐらいのテンションで。

生涯を通して、緩やかに弱くつながり続けるひとたちと出会っていくための空間を、これからもつくっていきたいです。
今日のお話が、いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても何かしらの参考となったら幸いです。