最近、キングコング西野さんのVoicy聞いていると「多子世帯」という言葉がたくさん使われるようになって、専門用語だから何一つ間違っていないし、この取り組み自体、本当にとっても素晴らしいことだと思うんけど、何度聞いても、どうしても「多く死ぬ」と書いて「多死世帯」に脳内変換しちゃう。たぶんこれは「多産多死」という言葉の影響も大きいんだろうな。
という、なんてことない話を、Twitterにもつぶやきとして投稿してみたところ、西野さんがすぐに見つけてくださって(一体どういうエゴサをしていればすぐに見つけられるのか不思議)その翌日、つまり今朝の配信においては「多子世帯」を「子だくさんファミリー」という言葉に言い換えられていました。
ここまで何度も「多子世帯」という単語を使って語ってこられたわけだから、チーム内で「すでにこの言葉で伝えていくぞ!」と決まっていたこともまず間違いなくて、オペレーションがより煩雑になることもわかっている上でもなお、その呼び方をこのタイミングで変えられることのすごさです。
そのことにとても感動したので、今日のブログの中でも改めてご紹介しておきたいなと思いました。
このような改善力こそが西野さんの素晴らしさそのものだなあと。
決定したことを頑なに貫き通すわけではなく、常により良い方向へ常に変化を求める姿勢に、本当に強く心打たれれるものがある。
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で、今朝配信されていたVoicyの本編の内容自体も、とっても素晴らしいお話だったなあと思ったので、ここからは、その内容で思ったことについて語ってみたいなと思います。
で、どちらかといえば、今日の本題はこちらになります。
西野さんが語っていたのは、当時の自身の親御さんの「傷」をケアしたいという話でした。
西野さんご自身が、子どもの多いご家庭で、決して裕福ではない環境で育ったという経験から、子だくさんファミリーであっても、エンタメや舞台を目一杯楽しんで欲しいという想いから生まれたのが、今回の施策だと語られていました。
詳しくは、ぜひ西野さんのVoicyの本編を聴いてみてください。
なんだかこれって、完全に僕にとっては盲点だったなあと思いました。
具体的には、「あっ、そこにも贈与はあったんだ」というような思いがけない発見をしたわけです。
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この点、どうしても僕らは、親からの贈与は「何か愛に溢れたプレゼントめいたもの」であるべきというような認識を持っているかと思います。
裕福な過程に生まれ育って、ハイパー・メリトクラシーのような体験格差のような話ばかりが語らられがちな世の中です。
だからこそその反対は「毒親」という話にもなるのだとは思うけれども、そうやって親の傷から生まれたものを「毒」と認定した時点で固定化されてしまうものがある。
そうじゃなくて、私は一体何を受け取っていたのか、それを冷静に考えると、子供時代に間近で見せてもらった親の「傷」というのも、親からの贈与になり得るんですよね、本当は。
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もちろん、それは必ずしも、受け取る義務があるわけじゃない。
そのまま捨て去ってしまっても構わないし、多くの人が実際、苦い記憶、辛かった記憶、そんなイヤな思い出として捨て去ってしまい、自分は親のような「傷」は負わないぞ、と心に決めて、反面教師とするわけですよね。
たとえば、このような場合だったら、自分は子だくさんであったとしても「子どもたちに満足にエンタメを提供できるように、お金持ちになるぞ!」とか「もしくは一切子どもを産まないぞ」とかでもいいかもしれない。
でもそんな親の「傷」を見てきたのは、ほかでもないこの私であり、同時に現代においても、その「傷」に対して今まさに苦しんでいるひとたちもたくさんいるわけです。
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もちろん、この話において、さっきからずっと想定しているのは、過去に何度もご紹介してきた近内悠太さんの『利他・ケア・傷の倫理学』のお話です。
本書の中では、傷というのは以下のような言葉として、定義されています。
以下は本書からの引用となります。
では、ここでいう傷とは何か? 「傷」をこう定義したいと思います。
大切にしているものを大切にされなかった時に起こる心の動きおよびその記憶。
そして、大切にしているものを 大切にできなかった時 に起こる心の動きおよびその記憶。
前者は、私の大切にしているものが誰かによって蔑ろにされたり、軽んじられたり、無視されたりしたときに起こる傷です。つまり、他傷です。それに対し後者は、私が大切にしているものを、私自身が大切にできなかった時に生じる傷であり、自傷です。
どちらにも共通の現象として、「大切なものとの関係性の断裂」を含んでいます。ですが、前者の他傷と後者の自傷では、どちらの方がより根本的かというと、後者です。 なぜなら、どのような他傷も自傷へと変換してしまう僕らの認知メカニズムが働くからです。
このあと、具体例としては「サバイバーギルト」の話につながっていきます。
「サバイバーギルト」とは、戦争や災害などにおいて、仲間や身内は亡くなったのに自分は生き延びてしまったという状況において発生する罪悪感のことです。
そして近内さんは、大切な人ともう会えなくなってしまった時、僕らは自然と「あの時もっと大切にしてあげればよかった」、「あのときどうしてあなたの傷に私は気づけなかったのだろう」という形の傷を負う、と語ります。
そして、誰かにやさしくしたいと思うのは「私はあのときやさしくできなかった」という記憶があるからではないでしょうか、 とも語るのです。
ゆえにこのようなロジックによって、ケア論や利他論は傷をめぐる議論へとつながっているのだと。
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で、これは親の「傷」にも間違いなく言える話だと想います。
自分が似たような年齢になってくると、余計にそれがよく見えるようにもなってくる。だから30代〜40代ごろに発見するひとが多いのだとも思う。
この点に関連して、村上春樹さんと彼の父親との関係性も、非常に興味深い例だなと思います。
村上春樹さんのお父さんは、中国で戦争を経験されたそうです。お父さんは生前その体験を深くは語らなかったようですが、密かに傷ついていた様子を、子供の頃の村上さんは感じ取っていたそうです。
そして、その傷を自分のことのように、村上さんは内面化していったわけですよね。
その結果、村上さんご自身も中華料理は食べられず、初期の作品にも中華料理の話はほとんど出てきません。しかし、最初の短編小説集『中国行きのスロウ・ボート』では、中国との関係性を小説に描くことで、ある意味で父親の傷それ自体をケアしようとしていたのかもしれません。
つまり、もしそんな親の傷がなかったら、村上春樹さんは小説を書いていなかったのではないでしょうか。言い換えると、親の傷が、逆説的に彼の創作の源泉となった言えるのではないかと僕は思うのです。
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思うに、子どもにとって、親が抱えていた当時の傷というのは、ものすごく固有性のある、そして宛名のある、誰よりも近くで見せられてきた(時に隠されてきた)ものだと思います。
そして、当時の親の傷を自分がケアできる対象であって、それって完全に贈与なんだろうなと思うなと思うのです。
その傷に対するケアや利他は、時空を超えて行われるものだということがある。
それが本当の意味で可能となったときに「素晴らしい才能(つまりギフト)」として自らが開花させるための圧倒的な贈与になる、まさにプレゼントになるわけです。
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これはたぶん言い換えると、当時の親の傷を癒やし、その癒やされていく過程それ自体に、子である私自身が癒されていくという順序なのでしょうね。
そして、ここから語るこの喩えが一体どれだけ適切であり、かつどれだけのひとに伝わるかわからないし、なぜ自分がこの喩えをここで持ち出そうとしているのかもわからないぐらいに戸惑いつつも、書いちゃうわけですが、
『魔法少女まどか☆マギカ』の最終回において、最後にまどかがすべての魔女たちを救うという願いを語るシーンのことを、僕はどうしても思い出してしまいます。
古今東西ありとあらゆる過去や未来に遡って、魔法少女たちの「傷」を一手に引き受けて、自ら手当をしケアしようとするシーンが描かれる。
あれは、すべての過去の呪いや傷を引き受けて、祈りに変えてしまうシーンなわけですよね。
「あなたたちの傷、その贈与を受け取った」ということなんだろうなあと。そう考えると、あの瞬間にまどかが「円環の理」を体現した救世主になれるということも、非常によく理解できる。今日の思考を辿ったあとだと、ものすごく理に適った話に、思えてくるから不思議です。
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血がつながっているとか家族とか、そのような現代においては嫌われがちな血縁関係というのも、このような部分がものすごくわかりやすい構造にあるからなんだろうなと。
しっかりと、自分との線でつながっている。それをコネクティングドッツするかどうか、自ら能動的に引き受けるかどうかは完全に個人の自由。
何度も繰り返すけれど、普通は子供時代の苦い記憶として、心の底の奥深い場所に閉じ込めて蓋をする、そして反面教師にしてしまう。
でも、そんな両親の傷や祖父母の傷、そのネガティブに思える子供時代の記憶こそが自己の才能を一番に開花させるための、何か一番のきっかけだったり、種のようなものが植わっていたりするのかもしれない。
そして、それが社会全体を豊かににする可能性を秘めている。
個人の成長だけでなく、社会全体の癒しにもつながっていく。村上春樹さんの小説がそうであり、西野さんのエンタメ作品が、今まさにそのように変貌しようとしているように、です。
そんな可能性を西野さんのVoicyのお話から感じ取ることができました。
なんだか、ものすごく変な話だと感じられてしまったかもしれませんが、いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。