今朝、AI分野の第一人者として知られる深津さんが、非常に興味深いツイートを投稿されました。


これは、とっても素晴らしいご提案だなあと思いました。

今後は「情報」というものの在り方が、行政に限らず、こちらの方向性に向かって大きく変化していくことは間違いないなと思います。

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従来の情報提供モデルでは、提供する側があらかじめ複数のフォーマットやバージョンを用意し、受け取る側は、その中から選択するという形式が一般的でした。

地域自治体の外国人に向けた「やさしい日本語」なんかはわかりやすい。

しかし、これからは受け取る側が、AIの助けを借りて、コンテンツの出力レベルを調整する形式へと移行していくことはまず間違いないかと思います。

さらに興味深いのは、この調整プロセスが高度に自動化され、受け取る側が意識せずに行われるようになるという点なんですよね。

つまり、受け取る側は自分がどの程度情報を変容させているのかさえ、はっきりとは認識できないような状態になっていくはずなんです。

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この変化は最近起きたことでいえば、2010年代初頭のウェブデザインの世界で起きた変革にも、とてもよく似ているなと思います。

かつて、紙媒体が中心の時代のデザイナーたちはミリ単位で細かくレイアウトを調整し、それぞれのデザインを入稿していました。

しかし、スマートフォンやタブレットの登場により、レスポンシブデザインが主流となったことで、むしろどのスクリーンサイズにも耐えられるデザインが求められるようになったわけですよね。

それと同じような変革が、今度は文章や言語の領域においても、急速に進んでいくのだと思います。

さらにこの変化は、テキストだけでなく、音声コンテンツにも及ぶと予想されます。

例えば、AIが話し手の声質や抑揚を完璧に再現しながら、聞き手に合わせて難易度を調整した音声を生成するようになっていくことも、まず間違いないだろうなあと思います。

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つまり、ありとあらゆる情報が、ユーザーに届くギリギリのタイミング、そのエッジのエッジの部分で、AIによって個々人に合わせて、微調整されてしまうようになるのです。

これは、以前に中華料理のお店の例で説明したように、料理がテーブルに運ばれた後に、テーブルの上でさらに胡椒などの調味料によって、各人の好みの味に調整が行われるようなもの。

そして、その調整のすべてが、本人の意思というよりも、AIによって半自動的に行われるわけです。

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で、この変化は、情報の生成とその消費の根本的なパラダイムシフトを意味しているんだと思います。

かつては、大きな物語が存在し、多くの人々が同じようなものを求めていました。

そのため、その物語に沿ったコンテンツを作成し、それをそのまま届ければ良かったわけです。

例えば、スター・ウォーズやディズニー作品、日本ではジブリ作品などは、そのような大きな物語の典型例だと思います。

それができたのは、全員が似たような受け取り方をする訓練がなされていた、その前提があったからです。

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しかし、現代では、すでにそのような大きな物語は失われつつあり、コンテンツはますます細分化され、個々のユーザーに合わせて、大きく変更されるようになっています。

このような変化の中で、情報の配信はよりパーソナライズされ、個々人の身体的特徴や知的能力に応じて、自由自在に変質していくわけです。

文字が変換され、図表にとどまることなく、絵や音楽にも変わってしまうかもしれない。これは避けられない世の中の流れであり、僕らはもはやこれを、完全に受け入れざるを得ないことは間違いない。

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では、このような変化の影響を踏まえたうえで、本当の意味で僕らが意識するべきことは何なのか?どんな対策ができるのか?

そこで重要になってくるのが「コミュニティ」の概念なんだと思うんですよね。

つまり、情報の届け方のほうの規範部分ではなく、ゼロベースで受け取り方の規範意識を整えていく必要があるんだろうなあと思うわけです。

言い換えれば、ゼロから新たな神話や物語を周囲にいる人々、具体的には顧客やファン、仲間たちと共にコミュニティサイズで手づくりしながら、作り上げていく必要があるわけです。

僕はこれが、「顧客育成」や「コミュニティ形成」がまさにいま注目されている真の理由だと思います。

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繰り返しになりますが、従来は、受け取る側の規範意識が大きな物語や義務教育、マスメディアによって勝手に形成されていました。

あとはそれに合わせたコンテンツを作成すればよかっただけ。

しかし、これからは受け取られ方そのものが変化をし、同じ情報でも本人の受け取るスタンス、その規範意識や倫理観によって全く異なるものとして届いて、勝手に解釈されてしまう可能性がある。

そのために、情報の「聞き方」を含めた、受け取る側のありとあらゆる礼儀や作法、マナーのほうが非常に重要になってくるのです。

それが居心地のよい場所や共同体、ブランドやお店の必須条件となってくる。

このような受け取り方のマナーを整えるために重要なのはコミュニティ形成であって、そして意外にも「何をするか」よりも「何をしないか」を共有することのほうが、重要なんだと思うんですよね。

つまり、欲望を広げることよりも、欲望を制限する方向性のほうが実は重要になってきているということでもあるなと。

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そして、この考え方っていうのは、宗教の本質と深く関連していくのだと思います。

ここで興味深いのは、なぜ自己本位で振る舞える環境において、あえて他者本位でありたいと人々が願うのか、という点です。

言い換えると、なぜ宗教は基本的には、禁忌がベースになっているのか?

それはコミュニティの成員の意見が対立したときの最終的な「紛争解決の手段」となるからだと思います。

基本的に人間の自由というのは、必ずバッティングする。公共の福祉の概念みたいなものですよね。

この点、昨日もご紹介した橋爪大三郎さんの『4行でわかる世界の文明』のあとがきの部分には以下のように書かれていました。

宗教は、ざっくり言えば、「大勢の人びとが同じように考え、同じように行動するための装置」である。だから宗教は、文明の基盤になる。日本人は、このことをよく理解していない。感度が鈍い。


で、各宗教をそれぞれ4行で言い表すときに、最初の1行から3行目まではすべて同じで、4行目だけが宗教ごとに異なるというのがこの本の趣旨です。具体的には、

1.まず、自己主張する
2.相手も、自己主張している
3.このままだと、紛争になる
4.〇〇〇〇なので、紛争が回避できる


この四行目の「〇〇なので」の部分がキリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、儒教などで大きくことなる。

つまり、何を禁忌とし、何をタブーとするかを定めることで、受け取り方の規範意識が整いやすくなる。その結果として、紛争が回避できるということなんだと思います。

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つまり、大きな物語がなくなった結果、自分たちの共同体に合わせた神話や物語からまたゼロから作り直さなければいけない。

それが今漠然と多くの人が感じ取っている顧客教育であって、それをマイルドに言うとコミュニティであり、そこに必要なものは、禁忌やタブーのほうであり、つまり宗教規範そのもの。

なかなかにわかりにくい話をしてしまっている自覚は強くあるのですが、ここは本当に非常に重要な視点だなと思っています。

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コミュニティ運営者が、宗教を学べば学ぶほど、物事の進行というのは遅くなってしまうと思われがち。それは実際にそのとおりだと思います。

しかし、それは必ずしも悪いだけことではなく、もはや必須だと思っています。

コミュニティ運営者が、宗教的な視点をきちんと持たないことは、ブレーキのない車のようなものなんだと思います。

以前もご紹介した、人類学者のロビン・ダンバーが『宗教の起源』で指摘しているように、一定規模(ダンバー数)を超えるコミュニティを束ねていいく場合には、宗教的な儀礼や祭りが必須かつ有効的な手段である。

また、そこには必ず紛争が起こるからこそ、やってはいけないこと、持ち合わせるべき倫理的規範も明確に定められているわけです。

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宗教には、このような紛争や破綻に起きる前提の深い知恵がたくさん詰まっており、コミュニティ運営もこれと同じ原理に基づいているのだと思います。

つまり、現在起きていることは、ミュニティごとの宗教的な規範の「再構築」とも言えるのでしょう。

そうすることで、受け取り方がバラバラになっていき、半自動的に「個人主義化」していく世の中において、本当の意味で人々がまとまることができるのだと思います。

結局のところ、コミュニティとは「神話の再構築」とその共有であり、大切にしたい物語の再創造なのだと思います。

今日もなかなかにわかりにくい話を書いてしまって本当に日々申し訳ないなあと思っていますが、いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。