先日、ラジオを聞いていたら「納得感と合意感」の話が語られていました。


当事者の納得感は得られなくても、せめて合意感が得られる状態が大切であると。

具体的には、選挙などの手続き(プロセス)は信頼してる状態、でもその手続きで導かれた結論は受け入れられないという状態が仮に存在したとします。

参加者全員がその手続き自体を信頼していれば、自分が同意できない結論であったとしても受け入れられるようになる、それが「合意感」です。

なぜなら、またその手続きを通じて自分の納得感のある結論を獲得するというプロセスは間違いなく担保されているからです。

いまは、その「合意感」を得るための議論の場がない。

議論の場に参加しているという意識さえ持つことができず、メディアの報道で結論を「認識」している状態が、そのまま「承認」につながってしまっていると番組内では語られていました。

このお話は、本当にそのとおりだなあと感じます。そして納得感と合意感の比較も非常にわかりやすい。

今日はこの話を聞いて、僕が考えたことを改めてこのブログにも書いてみたいと思います。

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この点、それぞれが納得感を抱くことができたら一番良いのは言うまでもありません。

そんな答えが存在するのであれば、真っ先にそれを選ぶべきです。

とはいえ、全員の納得感を得られるような答えなんて、そう簡単に導かれるものでもない。

そのコミュニティや共同体に参加する人数が増えれば増えるほど、それぞれが求めている「幸せ」や「幸福」のかたちは異なるため、全体として向かうべき方向性を決めるのは非常に困難になります。

現代のように「多様性」が重視される世の中になると、ますます難しい作業となるでしょう。

ゆえに、全員の「納得感」を得ることは到底不可能だと思われます。だから、権力者側は力技で強引に舵取りしようとしてしまう。

でも、上述したように結論に対して全員が納得できなくても、せめてその手続きの適正さ、その運用プロセスが全員にとって信頼できるに値するものにすることは可能なはずなのです。

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合意感さえ存在しないものに対して、無理やり何かしらのインセンティブ(主に金銭)を与えられてみても、意外とひとは反応しません。

経済学の中に登場する「合理的な人間」であれば、これだけのメリットを与えたら意見を変えて動くと予測されるのでしょう。

だから、原発の問題然り、米軍基地の問題然り、権力者はお金を払うことでこれだけ譲歩してやっているのだと示そうとしてしまう、その合意形成の場や手続きは曖昧でいいと思ってしまう。

しかし、実際の人間はもっと複雑な生き物です、そこまでバカじゃない。合意感がないものに、お金を積まれたからといってなびかないひとだって多い。

たとえば、家族のなかで子どもの理解を得るために、こどもにわかるように説明するのを面倒くさがって、お金(お小遣い)をあげて解決しようとする親を子どもはちゃんと見抜いている。

納得感はもちろんのこと、合意感でさえ本来は買収することができるものではないのだと思います。

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話は少しそれますが、このWasei Salon内でも「対話の場」をとても大事にしてきました。

対話を大切にしていると、最終的にそれぞれがまったく異なる結論に到達したとしても、お互いの考え方をすんなりと尊重することができる場合が多いのです。

これは体験してみると、とっても不思議な感覚でした。

決して何か合意形成が前に進んだわけではない。行ったことは、お互いに相手の話にしっかりと耳を傾けて、そのうえで自分の考えもゆっくりと聞いてもらうだけです。

対話以前と以後で、何かこの私の置かれている状況が変化したわけではない。

にも関わらず、対話後にひとりひとりが感じられる「納得感」や「合意感」には雲泥の差がある。

「お先にどうぞ」と素直に言えるようにもなるのです。

それは、自分の権利が理不尽なかたちで(合意感を奪われるようなかたちで)無理やり剥奪されないという安心感がそこに明確に存在しているからなのだと思います。

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だからこそ、まず僕らが最初に行うべきは、合意形成への信頼をしっかりと構築し直すことだと思います。

具体的には、議論や対話する場をもっともっと増やしていていくこと。そして、それぞれが信頼している手続きのもと、少なくとも参加している全員の合意感をつくろうと努力することは本当に大事なことだと思います。

逆に言えば、適正な手続き(プロセス)のもと得られた合意感に対して、部外者である人間はできるだけ口出ししてはいけないとも思います。

パターナリズム(父権主義)的に介入し過ぎない。たとえその先に、どれだけ悲惨な未来が待っていると容易に想像できたとしても、です。

未来に何が起こるのかなんて最終的には誰にもわからないですから。

そして、そのための法律なのだから、もし法の抜け穴が存在してその結果、不幸になるひとが増えてしまっていると感じるのであれば、また法改正から適正な手続きを取る必要があるのだと思います。

思想信条が異なる立場の人間から行われるパターナリスティックな介入に対して、ひとは強い不快感を覚えてしまう。

そこに強烈な「分かり合えなさ」を感じてしまう。それがより一層大きな分断を招く原因にもなるのだと思います。

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「これからの生き方を考える、より幸せで納得感のある生き方を」という社是を掲げて、僕はこの株式会社Waseiという会社を立ち上げました。

そのために必要な前提条件は、納得感以前の「合意感」をなるべく多くの参加者が得られるという状態であり、そのための対話の場がいま必要なのだと思います。

参加者それぞれの「幸せ」や「幸福感」はバラバラでいい。いや、バラバラがいい。

家族でも、会社でも、地域でも、国家でも、世界でもどの規模感の社会においても一番重要なことだと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。

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