昨日は、西郷隆盛の遺訓集『南洲翁遺訓』(なんしゅうおういくん)の読書会に参加して、そこで「事大小と無く、正道を踏み至誠を推し、一時の詐謀を用う可からず。」という言葉と出会った。
「どんな大きい事でも、小さい事でも、いつも正しい道をふみ、真心をつくし、一時の策略を用いてはならない。」という意味。そのあとに、「そうでないと後でツケが回ってくる」と話は進む。
大きい事でも小さい事でもという話は分かる気がする。ただ、そもそも正しさって何だ?という問いにまたもや躓く。過去にも考えたことがあるが、まだ答えは出せていない。
今回は、これまで幾度となく考えてきたが、その問いについて考えてみたいと思う。
正しいと思っていることは、苛立ちから気づく
『南洲翁遺訓』で言われていた正しさは、個々に委ねられる倫理的なものを指していたのだと思う。
誰にとっても正しいものなんてないけれど、小さな倫理。
例えば、ゴミはゴミ箱に捨てるとかは大切するなんてことがあたるのだろう。
倫理的な正しさはどうやってわかるかというと、自分がイラっとする瞬間かもしれない。
ぼくは街を歩いているときに、ゴミが捨てられるとイラっとする。ゴミ箱に捨てようよと。
けど、これもまた多様性だという議論になってしまうかもしれないし、押し付けはよくないものなのだろうかと疑問が浮かぶ。
その正しさは、論理的か実利的か
そんなときに、為末大さんの記事はまさに、考えてみたい内容のように感じた。
女性が夜道を歩いて痴漢に会う場合明らかに問題なのは痴漢の方ですが、それでも私たちは娘に「夜道を一人で歩いちゃいけない」と教えます。なぜなら社会が完全に倫理的になることはあり得ず、身を守るのは「実利的なもの」だからです。つまり倫理的正しさとは「そうあるべき」で語られ、実利的正しさは「具体的に自分はどうすべきか」で語られます。
倫理的正しさについての議論は、哲学や宗教に行き着きます。というのも正しさは人工物なので本当はそんなものがないからです。人工的に考えて作り出すなら思想哲学、既に決まっていると考えるなら宗教かなと思います。
倫理的正しさは人工物であり積み上げた土台のようなものなので、議論をする際にどの土台のレベルで話しているかを理解することが重要です。相手がどの程度の土台まで外しているのかによって議論の噛み合い方が違うからです。
相手がどの土台のレベルで話しているかの理解と、そのうえでどの程度の土台を外しているのかというのは、すごく大事なポイントかもしれない。
いま、自分は倫理的か実利的な正しさを語っているのか。
そして相手はどうだろう。
そうやって問えることで、相手の言っていることを受け止めたうえで、対話できる一つの道なのだろう。
世間的にある正しさと自分の信じる正しさ
正道を踏むということ。倫理的な正しさと実利的な正しさがあるうえで、何を大切にしたいかを考えて判断してくことなのだと思う。それは簡単なことではないし、終わりはないのだろう。
西郷隆盛が世間に受け入れられるときもあれば、「逆賊」の汚名をおうこともわかっていながらも、最後の選択をしていったことは、さらなる問いをもたらしている。
その先を描いたときに、他の人が拒む道の先に正しさがあることもある。視野視座視点や持っている情報によって異なることもあるから、本当に難しい。
それでも尚、考えた末に動いたときに生まれる事象から真摯に学んでいくことと、自分では経験しえない人生とwasei salonのような場で対話を重ねていくことが、いま一つの答えとなっている。
最後にそもそもの話だけど、きっと「正しさの道」だけにとらわれるのは、囚われすぎている気もしている。そのあたりについても深めていきたい。