先日、最所あさみさんがVoicyに出演してくれた際に「いま読み進めていて、とてもおもしろいですよ!」とオススメしてもらった本があります。

それが、文芸批評家・浜崎洋介さんが書かれた『小林秀雄、吉本隆明、福田恆存――日本人の「断絶」を乗り越える』という本です。

僕も実際に読んでみて、とっても素晴らしい本でした。特に印象的だったのは、人間の「自由」と「宿命」をめぐる問いについて、です。

今日はこの本を読み終えて、僕が確信したことを書いてみたいと思います。

結論を先出しすると「AIによって人間の可能性は無限に広がるからこそ、かえって人間は不幸になってしまう」という逆説です。

いきなりこう言うと、「え?逆じゃないの?」と思うかもしれません。でも、ぜひ最後まで読んでみてください。

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さて、本書の後半部分では、大正生まれの日本の評論家、劇作家である福田恆存の言葉が紹介されています。

その中で、「人間が本当に求めているのは、自由ではなく宿命だ」という話が語られます。

著者の浜崎洋介さんは、この言葉を読んでピンとくるかどうかが、この本を理解する上での最初の分岐点になると書かれていました。

このとき、「本当に求めているのは自由ではない」と言われるときの「自由」とは、まずは、「選択の自由」のことだと考えてくださいと、浜崎さんは言います。

近代社会は「選択の自由」(束縛がないこと)を拡張することをずっと価値としてきた。たとえば、家を継ぐしか選択肢がないところで、ある種の不自由や不満を感じてきたのだと。

そして家業以外にも、政治家や官僚、学者や小説家にもなることのできる社会を作り上げ、これを、社会の「進歩」と呼んで寿いできたのが現代社会であるのだと。

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もちろん、それ自体を否定したいわけではないと浜崎さんは語りつつも、問題なのは、その「選択の自由」そのものを価値だと思い込んでしまったところに生まれる「価値観の霧散=ニヒリズム」だというのです。

そして、ここからの話が、今日の核心部分で、非常におもしろくなってくる部分です。

以下、本書から少しだけ引用してみたいと思います。 

たとえば、「自由」を拡張した結果として、Aだけではなく、BやCやDといった選択肢を得たとします。しかし、そのとき私たちは、その「自由」だけで選択を下すことができるでしょうか、むしろ、与えられた多くの選択肢のなかで迷ってしまうことになりはしないでしょうか。

 「何者にでもなれるがゆえに、何者でもない」、あるいは「何者でもないがゆえに、何者にでもなれるかのような夢を見てしまう」、それゆえに、いつまでたっても「今、ここ」でのリアリティが手に入らない、この空虚感こそが、近代的「自由」を価値としてきたことの結果ではないのか、福田はそう言うのです。


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これはとても共感するお話ですよね。

実際に、人間が本当に生き生きと充実している瞬間のことを思い出せば、そこには「選択の自由」などという概念が入り込む余地がなかったことがよくわかる。

浜崎さんは音楽を具体例に出していて、有機的に繫がり合った音の連なりのなかに一種の宿命性を見いだし、「この音楽は、この音楽でしかあり得ない」と感じているときに、ひとは素晴らしい音楽だと感じると言います。

人生も同様であって、「私が生きる道は、これしかない」という宿命感、あるいは取り換えられない唯一無二の人生を生きているという手応えを得ているはずだと。

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ところが今AIの急速な発展によって社会で起きていることは、その真逆ですよね。

僕らの目の前には、一度諦めたはずの可能性、それを思い出させるかのような無限の「自由=選択肢」が、無限にばらまかれようとしています。

AIを使えば、たとえば若い頃に諦めたイラストレーターや作家、音楽家やエンジニアにもなれてしまう。

言い換えれば、一度、宿命を受け入れかけていたはずの人々の前に、「あれもできるかもしれない、これもできるかもしれない」という過去への後悔が、そのまま未来に逆投影される形においてあらわれる。

当然、今はまだイラストやテキストがメインですが、今後のAIは指数関数的に個人ができることも増えていく。

まさに「自己ロマンの投影と、それへの陶酔」が無限に掻き立てられてしまう魅惑的な世界が、いまAIによってもたらされようとしているわけです。

それは裏を返せば、「いま・ここ」のリアリティを持てなくなり、人々とを再び空虚な状態に引き戻す危険性をはらんでいるのだと思うんですよね。

で、そのときにみんながそうやって「新しい可能性」だけにひたすら群がれば、結局誰が一番儲かるのかと言えば、AI開発側だけです。

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もちろん、僕はここで、AIそのものを否定したいわけではありません。これからの時代を生きる人達は、AIは使ったほうがいい。

問題は、その使い方と、それによって自己の「宿命感」を見失ってしまう危うさにあるということです。

人間が本当に求めているのは、いついかなる時代においても、宿命的なものなわけだから。

だとすれば「自分がいるべきところにいる」という実感こそ大切にする必要がある。

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そして浜崎さんは本書の中で、「自己が居るべきところ」が分かるためには、まず、その自己を包んでいる「全体」が信頼できていなければなりませんと言います。

それが、信頼できていればこそ、自己はその役割を「全体」のなかで適切に位置づけることができるとも書かれていました。

これは本当に同意で、僕は「日本人はつねに『故郷』を求めている」と度々語ってきましたが、それはまさにこの話。

比喩的な意味での「故郷」という感覚が、まさに、この宿命、「いるべきところにいる」感覚と見事に重なるなあと感じています。

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で、この部分を本書の中で読みながら思い出したのは、過去に何度かご紹介してきた松岡正剛さんと田中裕子さんの対談本『日本問答』の中に書かれてあった、「老舗(しにせ)」の話です。

おふたりは、日本人の暮らしというのはモノを貸し借りしたり、古いものを修理したり再利用したりしながら、まさに融通や循環をしつづけてきたという側面があったと語ります。

そして、そうやって「直す」ことには、きっと「治める」ことに近いものがあったのだと。

そして、社会のなかのほころびを「まあまあ」と言って治める感覚と、家々の生活道具や石垣や屋根を修繕する感覚は、どこかで通じ合っていたんじゃないかというのです。

この視点は、非常におもしろいですよね。

さらに、これが「手入れ」の思想にもつながっていくと。

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また、テキスタイルにおける、ボロの「繕い」なんてまさにそれそのものだと言います。

そして、そういう繕いの感覚は、日本社会のいろんなところ、さまざまな職能のなかに見いだせて、繕い、継いでいくことで、それに関わる人々も時間の経過と共に自然と増えていくし、そのぶん人々の「物語」も増えていく。

この一連のくだりを受けて、田中優子さんが「老舗」という言葉について解説されていて、とても素晴らしい視点を与えてくれていました。

いまは「老舗」という漢字をあてていますが、あれはもともと「仕似せる」という動詞が語源なのだそうです。

だから、単に同じものを守っていたり、継いでいたりするわけでもなくて、前のものに似せながら新しくしているんだ、と。

そこから「血はつながっていなくてもいい」という考え方が成り立つ、日本の特殊な「イエ」的な概念も育まれた。「イエ」という外枠が継がれていれば、そこには継続性があるというように、です。

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これは膝を強く打ってしまうようなお話です。

もちろん、自己の可能性を試すこともできずに家柄に縛られてガチガチに固められてしまうのは、不自由極まりない。

だから、個人の可能性はまず十分に試されなければならない。

でも、試された可能性から得られた知見や経験をもとに「いるべきところにいる」という感覚を持てるための「宿命」へと、再び着地させなければならないとも同時に思います。

言い換えると、色々なことを試した結果として、自らの意志で何かを「継いでいく」と決心すること。

そうやって宿命を自ら引き受けていく感覚の中にこそ、本当の自由を感じられるのではないでしょうか。

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であれば、AIの正しい使い方はむしろ、その画期的で新しい技術を用いて「もう継げないかもしれない…」と諦めていたものを、再び「継いでいく」ことが大事なのだと思います。

つまり、AIの力を用いて自己ロマンに拘泥するのではなく「価値あるものを継承し、再発見するため」に活用するべきだと思う。

これは例えば、衰退の一途を辿ると思われていた歌舞伎が、最近は新しい技術や漫画の物語なんかを積極的に取り込んでいるように、です。

それは、宿命の再発見であり、物語の“仕立て直し”なのだと思うんですよね。

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個人の力だけで何でも制作が可能となって、それに伴い人材も過度に流動的になり、居場所がまったく定まらない時代だからこそ、逆説的に「居場所」という言葉も多用されている昨今です。

そして「自立とは、依存先を増やすことだ」といった文脈が語らることも増えましたが、僕は決してはそれだけではないと思っています。

「自立とは、継いでいくものを自らに定めること」だと思う。

継いでいくことによって、それにかかわる人が増えていくし、そのぶん物語もふえていく。まるで一枚の布を、そこに宿る物語を慈しみながら繕い、治し、新たな形に仕立てて、次の世代へ継いでいくように、です。

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これまでの担い手たちや先人たちに敬意を払いながら、新たな技術やテクノロジーと共に、新たな物語を付与していく、そのバトンリレーの中にこそ、本当の幸福があるのだと思います。

他者の欲望やAIがささやく「無限の可能性」に振り回されるのではなく、自らの内なる声に耳を澄まし、引き受けるべき宿命を能動的に見出していくこと。

僕らがいま手にしている新しいテクノロジーというのは、きっとそのために存在している。少なくとも、僕はそうやって使っていきたいなと思います。

いつもこのブログを読んでくれている方々にとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。