最近は、ビジネス系から人文系まで、空前の「問い」ブームだなあと感じます。
数年前の傾聴ブームにも匹敵するほど、いまは誰もが「問い」をコンセプトに掲げている。
ただ、こうした風潮を見ていると、数年前に人文系の間で流行した「ネガティブ・ケイパビリティ」と全く同じ現象が起きているような気がします。
「わからないことは、わからないまま抱え続けることが大事だ」という教えに対し、「そうそう!わからないまま抱え続けることが大事ですよね!」と安易に同調する姿勢というのは、実はネガティブ・ケイパビリティの本質から、最もかけ離れた態度なのではないか。当時の僕は本気でそう思っていました。
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今回もそれと非常によく似ていて、「問いを持つことが大事」という、それ自体が一種の「答え」となってしまっている。
もし本当に「問いを持つこと」が大事なのであれば、まずは「本当に『問いを持つこと』が大事なのだろうか?」と、その前提自体を疑ってみる必要もあるはずなんですよね、本当は。
つまり、何が言いたいのかと言えば、最近の問いブームも、他人から都合よく与えられた「問い」を、あたかも自分が発した「問い」であるかのように錯覚してしまう、そんな落とし穴があるのではないかということです。
今日はそんなお話です。
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この構造は、社会から与えられた欲望を、いつの間にか自らの純粋な欲望だと信じ込んでしまう現象なんかにもとてもよく似ているなと感じます。
そして、この構造を理解している側からすれば、相手に「自分で問いを立てた」と思い込ませることは、実はめちゃくちゃ簡単なことだったりもするわけですよね。
結果として、本人は能動的に探求しているつもりでも、実は巧みに誘導されてしまっている、という状況なんかも生み出すことができてしまう。
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で、このことを考えるとき、僕はいつも自分自身の小学校時代の体験を思い出します。
以前にも何度かこのブログに書いたことがありますが、僕は北海道の教育大附属の小・中一貫校出身で、「問いを立てる(子を育てる)」といった、少々変わった教育方針を掲げた小学校でした。
国語の時間ひとつとっても、教科書に予め用意された設問に取り組むのではなく、子どもたち自身に問いを立てさせ、それに対して自分たちで答えを見つけ出させる、そんな自主性を重んじる教育を実践していたのです。
しかし、当時の僕は、それが本当に嫌でたまりませんでした。ずっと大人たちの欺瞞ではないかと感じていた。
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小学生が自力で考えつく問いなど、たかが知れています。
「子どもたちの問いは独創性に溢れていて、素晴らしい!」などと大人たちは目を輝かせながら口を揃えて言いますが、それは彼らが勝手にそういう幻想を子どもたちに対して抱き、そんなフィルターのかかった目で、子どもたちを見ているに過ぎない。
その実態というのは、子どもたちが「大人たちから見て、都合の良い独創性のある問い」を立てるように、巧みに仕向けられる構造でしかない。
そして、その意図に反するような問いを立てようものなら、やんわりと、しかし確実に軌道修正させられるわけです。教師たちにとって、子どもに抱いて欲しい「問い」の方向へと。
「それなら最初から答えを教えろよ」と、僕はいつも心の中で思っていました。そして、大人たちが欲しそうな「問い」をつくっては、成績や評価だけを得ていました。
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そして、子どもたちが(そうやって半ば強制的に立てさせられた)「自分で立てた問い」に対して真剣に向き合っていない姿を見ると、「それはあなたが自分で立てた問いだよね?」と囁きながら、探求を続けるよう促してくるわけです。
さらに、そうして見つけ出された「答え」に対して、「それを尊重しないの?」と、あたかも子ども自身の主体性を問うかのように、迫ることもできてしまうわけです。
そんなやり取りを何度も繰り返すうちに、僕は問いというものが嫌いになりました。
だったら、一方的に答えを提示してきて、時には体罰も辞さないような教師のほうが、まだしも潔くてマシだとさえ思うほどでした。それは以前も書いたとおりです。
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現代は、社会全体がこのような「問い」ブームの渦中にあるなと思います。
だからこそ、真面目な若者たちほど、このブームに真摯に向き合おうともしている。
その一方で、どこかひねくれていたり、物事を冷めた目で見たり、コスパタイパを重視する若者たちは「最初から答えが決まっているのなら、そんな回りくどくて、つまらない演出はやめてくれよ」と悪態をつく。
僕も、彼らに全く同感です。
自由な「問い」を立てさせる気もなく、問いの重要性もよく分かってもいないのなら、偉そうに語るなよ、と。
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当然、大人になれば、そこにはビジネスの視点も色濃く絡んでくるから余計に厄介だなと思います。
具体的には、素人が考えつきそうな「問い」を先回りして予測し、それに対する「回答」や「ソリューション」をあらかじめ用意しておくこと、それは実はものすごく簡単なことです。
そして、そうしたビジネスがいま世の中の至る所に溢れかえっているように僕には見えます。
この手法の巧みなところは、最初から一方的に答えを与えるよりも、相手が「自ら問いを見つけ、自分で答えにたどり着いた」かのように演出できるために、より相手を褒めたり、承認したりすることが可能になってしまう点なんです。
今は、ビジネスも人文系も、まるで「問い」をもてはやすホストクラブやキャバクラのような構図になってしまって、お金の匂いやそんな意図が完全に透けて見えてしまっている。
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もちろん、自分で問いを立て、仮説を構築し、それを検証し、トライ・アンド・エラーを繰り返しながら自走していく、という学びのプロセスそのものは非常に重要です。
そこはくれぐれも誤解しないでいただきたい。だからこそ、Wasei Salonも「私たちの”はたらく”を問い続ける」というテーマをおいています。
でも、現在の「問い」ブームの多くは、一方的に答えを断定するようなホリエモンやひろゆき、トランプやイーロン・マスクのような「言い切り型のムーブメント」に対する、都合の良いアンチテーゼとして機能しているに過ぎない。
あの姿勢にモヤッとさせられる人たちが増えているからこそ、真逆に振って、問いが大事と言っているだけで。
そして結局のところ、それもまた彼らと同様に「自分の正義」を相手に与えようとする行為と同義であり、むしろ善良である風を装うこと自体が、狡猾で悪どいなとさえ思わされます。
そして、自分たちの商品を買わせるところまでがセットになっている。カスタマージャーニーがそこには明確にできあがってしまっているわけですよね。
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でも、本来、問いを持つという過程は、もっともっと苦痛が伴うものでもあるはずです。だからこそ、そこには適切な伴走や、共に考え続ける場の継続性が不可欠なはずなんです。
言い換えれば、問いを深め、問い続けるための「空間」や「仲間」を持たない人が下手に「問い」を持ってしまうと、かえって流されやすくなる危険性がある。
問いを立てて、答えが出ないのは苦しいから、より安易な「答え」を求める。
「問いを持つのが大事だ」と声高に主張する人たちが、驚くほど似たような問いを立てて満足している光景は、その典型だと思います。
そして、AIに問いかければ「それは素晴らしい問いですね!それを考えるに当たっては、〇〇という視点があります…」などと、あたかも深い洞察が得られたかのような錯覚に陥らせてくれて、結果として平均的な答え、資本主義経済の論理の中に巧みに飲み込まれていく。
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あるいは、陰謀論などもその最たる例かもしれません。
漫画『ようこそ!FACT(東京S区第二支部)へ』でも描かれていたように「問いを持った」結果として、あのような「真実」に彼らは引き寄せられてしまっているわけですから。
彼らは「問いを持つ」という一点においては、ある意味で大正解を実践しているわけですよね。
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だからこそ、いつの時代も皮肉めいた人たちは「考えるな、感じろ」と言うのかもしれない。
それは、一側面として紛れもなく真実だと思います。下手に「問い」を持って本を読んだり、AIに聴いたりしてしまうぐらいであれば、いっそ何も考えずに直感に頼ったほうがマシです。
僕自身も、中途半端に「問い」を掲げるくらいなら、そんなものは持たずに自らの直感に従ったほうが良いと本気で思いますし、安易に「問い」に飛びつくな!と警鐘を鳴らしたいぐらいです。
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では、一体どうすればいいのか。
正直、僕にも何か明確な答えがあるわけではありません。
ただ思うのは、頭でっかちに考えれば考えるほどリベラルな方向、あるいはネオリベのような方向にも傾倒しやすくなると思います。
でも、本当はそうではなく、集団や共同体の「調和」を目指すということなのではないか、と。先日の「和を以て貴しとなす」の話にも通じるのですが、そこに本来の目的を置くことが大事な気がしています。
そして、そのような切実な思いや目的の中からこそ、本当に「生きた問い」が生まれてくるのではないのかなと。
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日々の生活や実践の中で生まれた、生きた問いが、今めちゃくちゃ大事だと思うんですよね。
その「生きた問い」に対する答えは、時には白黒つけられないグレーなものになるかもしれない。
それでも、それによって、コミュニティの調和や循環が保たれ、より良い方向へ進むことができるのなら、きっとそれが本当の意味で探求すべき「未知」の事柄だと思うんです。
これはプラグマティズムとも少し異なり、うまく説明するのはなかなかに難しいのですが、でも、今「生きた問い」とはまさにそういうことだと僕は思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの考えるきっかけや参考になっていれば幸いです

2025/06/05 20:31