最近、「壁」についてよく考えています。
近ごろ文庫版が発売された村上春樹さんの『街と、その不確かな壁』のタイトルを改めて書店の平積みで眺めていたとき、「壁とは不確かなものなんだ……!」と、突如として何かが腑に落ちた瞬間がありました。
これは僕にとって、かなりの衝撃的で、同時にとても感動的な体験でした。
養老孟司さんの『バカの壁』も、まさに同じことを言っているのかもしれないなと、今さらながら思います。
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僕たちはつい、壁というのは「明確にそこにあるもの」だと信じ込んでしまう。
でも、実はそれこそが錯覚であり「不確かさ」こそが壁の正体だった。
言い換えれば、壁は外にあるのではなく、内なる「疑いの心」が生み出すもの。自分がその壁を越えられないと信じれば信じるほど、むしろその壁の強度は強まっていく。
だから、実は、壁の強度を高めているのは自分自身であり、本来、壁は圧倒的に”不確か”なものであり、だからこそ”壁抜け”なんだ、と。
今日は一風変わったそんなお話になります。
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で、ここで言う「壁」はメタファーだと思われてしまっているかもしれないけれど、そのままの、ありのままの真実だと思っています。
僕らが知っている壁は、本当にすべてが不確かなもの。
過去に何度かご紹介してきた、ジョーゼフ・キャンベルの『神話の力』の中で語られるブッダの話なんかもそう。
ブッダは悟りを得たあとに、現世に戻ることを選んで、その道筋のなかにありとあらゆる誘惑を仕掛けてくる悪魔と出会うわけですが、あの悪魔も「壁」そのもの。
https://x.com/hirofumi21/status/1590348710138953729
キリスト教における新約聖書の内容なんかも、まさにそうです。
イエス・キリストは、サタンとの対話の中で「人はパンのみに生きるにあらず」と語る有名なシーンがありますが、これも、目に見える“実体”に囚われる人間の壁を超える一言だったのでしょう。
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あとは、『思考は現実化する』で有名なナポレオン・ヒルが書いた『悪魔を出し抜け』という本の内容なんかも、まさにそうです。
最近また改めてこの本を聴き返したのですが、これは、とっても変な本なんですよね。
「悪魔への挑戦状」という形式で描かれていて、ナポレオン・ヒルが書籍の中の架空の裁判所で“悪魔”を証人席に呼び出し、悪魔に尋問を開始するような内容で、悪魔との対話篇となっている。
いちばん最初にオーディオブックで聴いたときは、そこまでピンとこなかった作品です。
でもこれも「壁」の話をしているんだと思えば、なんてことはない、ものすごく当たり前の話をしているだけなんだと気づきました。
あとは、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」なんかもそう。ずっと人間がつくりだす「壁」のメカニズムを説明をしてくれている。あれも壁の話をしていると思えれば、そこまで意味不明な話をしているわけでもない。
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このように小説、医学、哲学、神話、自己啓発、言語学、ジャンルを超えて先人たちはずっと、必死に僕らに対して「壁」の話をしてくれている。
それに、今の今までまったく気づけていなかった。
じゃあ、具体的にどうやって、壁と向き合えばいいのでしょうか。
「壁は抜けられる」と言ってみたところで、壁を壁として認識してしまっている私がそこに存在しているのだから、どうしようもない。
それぞれの方法やアプローチは様々あるとは思いつつ(逆言えば、そのアプローチが様々あるからこそ、各ジャンルにおいて、そのことを探求している人たちがいるのだろうけれど)
いまここで、僕がひとつ主張してみたいのは、そこにちょっとしたズレを発見してみることなんだと思います。
完璧な壁など、この世にはひとつも存在せず、どんなに強固に見える壁にも、必ず「揺らぎ」や「綻び」がある。
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この点、少し話がそれますが、最近何度もご紹介している『日本問答』の中に出てくる「床の間」の話が非常におもしろかったです。
松岡さんと田中さんの話によると、床の間というのは、必要に応じてつくられたものじゃないそうです。
もとは置物のための「押し板」であり、それは空間設計上の余分というか余地だったそう。
そんな余地の「ズレ」が、書院造のなかではっきりと構造化されていって、床の間がなくてはならない茶室のようなものまで昇華されていったそうなのです。
おふたりは、「ズレとか偶然の重なりだとかパッチワークみたいなものが、新しい価値が生まれる転換点になっている例が、日本にはものすごくたくさんあるんですね」と語られていましたが、本当にそうなんだろうなと思います。
「間」としての余白、空間の広がりの中に大きなヒントがある場合は非常に多いなと感じる。
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で、同様に、漫画『バガボンド』の中にも描かれてあったように、どれだけ農作業に失敗しても、既に水が溜まっていて、ちゃんと成果が出ているところは、必ずある。
つまり、どんなに過酷な境遇にいても、それがたとえ100点中の20点とか30点とかの出来栄えでしかなくても、すでに”はじまっている”箇所は必ずある。
それは決して狙ったものではなく、ある種の誤配みたいなものに近くても、でもそこにしっかりと着目してみることが大事だと思うのです。
具体的には、その部分を、よくよく観察をしてみること。なぜそれが起きているのか、また、その現象に対して素直に、そして真剣に耳を澄ましてみること。
でも、だからといってすぐに過度な「手入れ」をしないことも、同じぐらい大事なことだと思っています。
そうやって、灯火を自ら消してしまうのが、人間の悪い癖。
そうじゃなくて、自分の恣意的な判断によって「手入れ」をしていなかったからこそ、そこに風前の灯火としての可能性がいま芽生えているわけですから。それをまずはしっかりと観察してみることなんでしょうね。
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なんにせよ、すでに、それは起きている。
現実として結実している箇所が必ずあって、あとはその「間」を頼りにしながら、壁の向こう側に対して、勇気を持って足を踏み入れるかどうかが、大事なんだろうなと思います。
この「ズレ」や「間」や「余白」というのは、他者との関わり合い、そんな対話の中で起こることも非常に多い。
村上春樹作品というのは、それを僕らに深く丁寧に教えてくれている。
村上作品の中で頻繁に起こる「壁抜け」は、必ず手を取り合って導く者と共に行われることなんかも、それを象徴しているなと思います。
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で、ここまで考えてきて、僕がWasei Salonのメンバー向けに提供している「トリートメント」という1on1セッションなんかも、まさにこの不確かな壁の自覚と、壁抜けをお手伝いしたいんだなとなんだか腑に落ちました。
自分がやっていることは、ただの傾聴でもなく、ただのアドバイスでもなく、「何もしないことを全力でやる」ような働きかけであって「能動的であると共に、受動的でもある」と思っていたのだけれど、それはつまりそういうことだったのか、と。
相手の認識の中で生み出されている不確かな壁を、共に抜けてみようと試みること。
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そのためにも、まずは話を丁寧に聞かせてもらって、相手が感じている壁を自分でもその細部まで微細に描けるように、目いっぱい想像をしてみることが大事で。
言い換えると、それを僕自身も明確に「壁」だとして認識をしながらも、共に抜けること。ふたりならそれができる。
だって、僕にとってはそれは「壁」でもなんでもないから。半透明でバーチャルなものにすぎない。
私の壁を「壁」として認識していない人が、共に手を引いてくれるから、その壁は抜けられる。
だからこそ、抜けている瞬間もちゃんと手を取って離さないことが、本当に大事なんだろうなあと思います。
このあたりが腹落ちしてからは、他者との対話も、ものすごくやりやすくなった気がします。
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あと、最後に書き加えておきたいのは、いまこのことに気づけた喜びについて、です。
これっていうのは、頭だけで考えていても決して答えはでない問題です。だって、その頭こそがつくりだしているもの、それが壁の正体そのものなんだから。
心身ともに向き合わないと、これは本当の意味で腹落ちしない出来事だった。
これも全部、AIのおかげだなと思います。怪我の功名のような話。
いまはAIがいくらでも壁をカンタンにつくりあげてくれるから。AIは壁を縦横無尽に操れるといったほうが、わかりやすいかもしれない。
「なんだ、それはそうやって操れるものなのか!」という発見が、この気付きを後押ししてくれた。
言い方を変えると、舞台のセットみたいな感じで分厚く見えるこの壁でさえも「実はその裏側は、ハリボテだったんだ!」とAIの挙動を通じてわかったからこそ、気づけたことでもある。
本当に、塞翁が馬だなと思います。
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いい意味で、詰め込み型の知識に対して諦めがついたからこそ、その壁と向き合う自分の問題次第なんだと本当の意味で深く自覚ができて、いまこのような形において、少しずつ壁抜けが可能となってきている。
もしAIが出てこなかったら、きっと僕自身はずっと壁を壁として、それは決して壊すことのできない実態そのものだと捉えたままだったような気がしています。
繰り返しますが、壁とは、私が“そこにある”という思い込みこそがその実体なんです。
これに気づかせてくれたのは、AIには感謝しかない。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。

2025/06/08 20:39