Wasei Salon内で開催された読書会のアーカイブを聴いていると、その書籍自体を読んでいなくても、毎回とてもおもしろいなあと感じられます。

これは、書籍の内容とは関係なく「あー、今この方の『宿命』に出会われて、底が抜けたな」と感じられる、その感覚みたいなものがきっとおもしろいんだろうなあと。

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じゃあ、その宿命に出会って底が抜ける体験とは一体どういうことなのか。

これは、先日もご紹介した浜崎洋介さんの 『小林秀雄の「人生」論』という本の中から借りている言葉で、この本の中にとても印象的な話が書かれていました。

例として、ドストエフスキーに「惚れた」人間を前にして、「なぜ、ドストエフスキーに惚れたのか」と問うてみる場面が本書の中では描かれています。

きっと、その人は主観的な答えを自由に引き出してきて言うのだ、と。

「世間に反発していた自分が、『罪と罰』のラスコーリニコフに似ていたからだ」とか、「『悪霊』のスタヴローギンが語るニヒリズムが、自分の気分にぴったりだったからだ」とか。

しかし、さらに「ラスコーリニコフや、スタヴローギンに似ている人間などほかにもたくさんいるし、ニヒリズムを描いた作家ならドストエフスキーに限らない。にもかかわらず、なぜ君はドストエフスキーに惚れたのか」と問い続けると、このとき、その人は答えに詰まってしまうはずですと著者の浜崎さんは語ります。

そして、主観的理由によって、ドストエフスキーとの出会いを語ることができなくなった彼は、おそらく、次のように言うしかないことに気がつきます。

「それは、私が私だからだ」と。

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で、ここからの話がさらにおもしろい。

以下は、本書から直接その箇所を引用してみたいと思います。

この同語反復が強いられる場所で、「なぜ......?」の先に出てくる答えの底が抜けるのです。私が私であり、ドストエフスキーがドストエフスキーであるがゆえに両者が出会うことができたのだとすれば、その出会いに根拠はありません。そして小林は、その根拠なき出会い、つまり、主観的虚構には還元できない飛躍的な「直観」のことを指さして、「宿命」と呼ぶのです。


このお話を読んだとき、僕は強く共感してしまいました。

僕たちは何かに強く惹かれるとき、そこには論理的な説明を超えた「直観」が存在している。選んだのではなく、出会ってしまったもの。その底が抜けるような瞬間を体験している。

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そして、その「直観」は、厳密には選ぶことさえできないものだと、浜崎さんは書いています。たとえば、そんな選べない事実のことを、小林秀雄も次のように語っていたそうです。

人は様々な可能性を抱いてこの世に生れて来る。彼は科学者にもなれたろう、軍人にもなれたろう、小説家にもなれたろう、しかし彼は彼以外のものにはなれなかった。
これは驚くべき事実である。(『初期文芸論集』14頁)


これはなんとも言えない、衝撃的な話ですよね。

当たり前過ぎて、一体何を言っているのかさえもピンとこないかも知れないですが、本当にそのとおりだなと感じます。

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昨年、僕自身もこの「底が抜ける」体験をしました。

それは村上春樹の作品との出会いであり、それは先日も書いた通り。なぜ今、村上春樹なのか?と問われても、「今の、自分が自分自身だからだ」としか答えられない。

そして、それはある種の宿命に近いものだったのだろうなあと思います。

だからこそ、みなさんにも「私が私だから」以外にはない、そうやって底が抜ける体験をして欲しいなと。多少いじわるな言い方になりますが、そうやって言語化に困ってみて欲しいし、壁にぶつかってみて欲しい。

本の内容それ自体や、そこからの一般的な解説や考察よりも、底が抜けた中で感じたことを伝えあって欲しいなあと思うんですよね。

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しかもこれは、コミュニティだからできることでもあると思っていて。

もし仮に、そんなことをTwitterやnoteに書いてみたところで無視されるだけ。

「私が、私だから刺さりました」と言ってみたところで、「で?だからどうした」「あんたのことなんて、しんらんがな」という反応が一般的。

というか、反応さえ一切ないのが当たり前だと思います。どれだけ自分にとって衝撃的で、底が抜けてしまった体験を書いてみたところで、スルーされて終わり。

あんたの宿命の話なんてどうだって良いから、もっと客観的に役立つことを書いてくれ、となる。

その結果として解説や考察記事に人々は流れる。そうやって客観的な評価ができる文章のほうがオープンの場では求められるし、バズりやすい。

そちらは、多くのひとにとって納得感のあるものだからです。それゆえに、なんでもかんでも客観性のある納得感のある意味付けをしたくるということだと思うんですよね。

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実際それが有益であることも間違いないのだけれど、それはすでにオープンな空間で頻繁に実現されていることでもある。

僕は、そうじゃなくて、「私が私だから」と底が抜けた話を、クローズドのコミュニティ内で丁寧に受け取り合いたいなあと思うんですよね。

なぜなら、この底が抜けたとき、ひとが目をまん丸くしているときの話って、ものすごくおもしろいなと感じるから。

たとえば、ドストエフスキーの話だからというわけではないけれど、最近るるさんが書いてくれたこちらのブログなんてまさに、るるさんの「直観」の話だなと思いました。(ご本人は主観的感想とタイトルに付けられているけれど)



そして、本文中のイギリスの大学院でのやり取りはまさに客観の話。

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そうじゃなくて、その宿命の話をもっと聞かせて、と思うはずなんですよね。

「ゆっくりでもいいから、言葉にもなっていなくてもいいから」と。

というか、言葉になっていないほうがいい。今まさに言葉になりそうな、そのグルグルとまわりをなぞりながらも、中心には全然届かない感じ。だって、その中心は底が完全に抜けてしまっているから。底は真っ暗で、その事実に本人自身が一番驚いている。

そんな話のほうが、断然おもしろいなあと僕は思います。

これはサロンの読書会などで、一度でも実際に体験したことがあるひとならわかってくれるはずです。あのタイミング、ものすごくおもしろいですよね。

でも、あのときのお話をTwitterやnoteで文字起こしや記事にしてみても、誰も見向きもしないことも間違いないと感じられるかと思います。

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ここまで読んで「つまりそれは、自己開示ってこと…?」となるんだけれど、そうでもないというのが僕の考えです。

これは、自己開示ともまたちょっと違う。そこではもはや「自己」を突き抜けてしまっているから。

それが底を抜けるという意味でもあると、僕は勝手に解釈しています。

先ほどの書籍から、再び僕が印象的だと思った「直観」にまつわる該当箇所を少し引用してみたいなと思います。

小林秀雄の言う「直観」には、「主観」というニュアンスがなかったことです。「主観」は、その好みによって己の世界を自由に虚構します。が、「直観」は違う。むしろ、それは対象から目が離せなくなるといったかたちで、主観的虚構が不可能になるという経験なのです。そして、そんな他者との出会いのなかに到来する「直観」においてこそ、小林秀雄は己の「宿命」を感じ取ることになります。


つまり、自己開示はどちらかと言えば、主観の話なんです。

そうじゃなくて、直観の話でありたい。(当然、自己”提示”の場合は、客観の話になりやすいわけです)

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主観の話というのは、相手と相当重なる部分がないと、聞いていてもつまらない。うだうだと昔話や屁理屈を聞かされているような感覚に陥る。

だから、一般的に自己開示が行われるのは、自助グループのような、まったく同じ境遇に置かれている者同士で集まって、話す場合が多いわけですよね。

逆に、他者の「主観」のぶつけ合いは、分断の原因にもなるわけです。お互いの境遇に理解を示せず、ものすごく退屈だから。それゆえに、ひとは、客観を重視し合うのだとも思います。

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一方で、行き過ぎた客観性には、欺瞞的な匂いが漂いやすい。

既得権益層がテンプレ構文ばかりを用いて、何かを言っているようで何も言っていない状況に陥る。

だから、そんな客観性の強すぎるポリコレや儀式ではなく、「主観だ!」ってなっているのがまさに今の世の中で、トランプ大統領のような主張や、先日のフジテレビの記者会見における記者側のような態度になっていく。

それが分断を深めている大きな原因だと僕は思います。

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それゆえに、主観を超えた直観を大事にしたいと思う。

それぞれが「私が私だから」という驚きと、底が抜けた感覚をともにおもしろがるコミュニティのような場が重要だなあって思います。

このように底が抜けた体験を他者に受け止めてもらえるからこそ、自分自身も他者を受け止めようと思えるはず。なぜなら、それは絶対的な包摂だから。

そして、その包摂が行われるからこそ、客観的な説明を怠らないようにしようという意欲も生まれてくるはずで。日常の仕事の場面でも、説明や心尽くしを惜しまなくなっていくと思うんですよね。

つまり、順序が逆で、直観の共有できる場がきっと、日々のより良いコミュニケーションの土台となってくれるんだと思います。

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きっとこのWasei Salonも、全員がバラバラなのに、文章の上手い下手や話し方の上手い下手を飛び越えて、直観を聴き合う文化がしっかりと醸成されているからこそ、バラバラな人間同士が「ともにいる」という体験ができるのだろうなあと思います。

そして、その絶対的な包摂があるから、サロン外の世界においても、みなさんが健やかにご活躍できている、その一助にはなっているんだろうなあと。

これからも、この感覚を大事にしていきたいなあと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。