今日は以前書いたブログ「時代の空気は、対話から議論へ。でも昔とは明らかに違う。」の続きのような内容です。
パーソナル編集者・みずのさんのVoicyの最新回を聴いていたら、パーソナル編集者が今求められているのは、時代の変化のなかで、本気のガチアドバイスが求められているからなのではないか、というお話が語られてあって、これがとっても興味深く、おもしろい話だなと思いました。
ーーー
現代は、ガチアドバイスや、過度なおせっかいが許されなくなった時代です。
相手の課題に対し、一歩踏み込むこと自体が完全にリスク要因となり、良かれと思って行ったことであっても、それが相手との間に認識の齟齬があるとハラスメントになる可能性がある。
だから、お互いに過度に踏み込むことは極力避けて、対話や相互理解を大切にしてきたわけです。
そのおかげで、あらゆるハラスメントが世の中から減りつつある。それが、ここ10年ぐらいのものすごく良いポジティブな変化だと思います。
ーーー
でも結果的に、踏み込んだガチアドバイスのようなものも、同時に世の中から減りつつある。
かつては、親しい間柄であれば、率直に意見を述べ合うこともできたわけですが、今では「余計なお世話」と受け取られることも多くなり、ここは完全にトレードオフの関係性です。
その時に、みずのさんの「パーソナル編集者」のような、ある種の契約関係を結んだ中での踏み込んだアドバイスを与えてくれる存在は貴重なのではないか、だから今これだけ「パーソナル編集者」に想定以上のニーズがあるのではないか、という話が語られてあって、本当にその通りなのだろうなあと思いながら、僕は聴いていました。
ーーー
僕が先日書いた「時代の空気は、対話から議論へ。」というブログも、対話から議論が今必要になっているという気運の変化みたいなものを論じました。
従来の議論に立ち戻るのではなく、これまでの対話中心の世の中でお互いに培ったスキルを持ち寄って、お互いに敬意を持ち合ったうえで、そのルールを認識し合いながら、ファールラインも共有している状態で議論することが大事だよねと。
今は過去10年程度の変化で、対話のルールが整ったからこそ、また議論がすこしずつ求められ始めている部分もあるよね、と書いたわけです。
言い換えると「ゆっくりと待っているから。裏切らないから」そうやってハラスメントだと告発して手のひらを返さないというお互いの信頼関係があるからこそ、語り合える踏み込んだ議論もあるはずです。
大事なものにたどり着くために、早合点しないという状態をつくり出すために、善意・悪意関係なく第三者割り込んでこない空間の重要性みたいなものがいま大事なんだろうなあと思っているわけです。
ーーー
実際、Wasei Salonという空間は、それをコミュニティとして実現したいなあと思っていて、実際に既にそうなりつつもあるよなあとも思います。
長年かけて、対話で培った関係性やコミュニティとしての文化観があるからこそ、お互いに少し踏み込んだり、本来だったら誤解を恐れて建前で誤魔化そうとしてしまう部分も、真剣に語り合ったりすることもできる。
そして、このときに僕は「観客」の存在も非常に重要だとも思っていて。コミュニティが大事だと思う理由もまさにここにあります。
ハラスメントや揉め事というのは、基本的には対人関係の問題だから、対人関係内でどうこうしたくなるんだけれども、でも、実はその良し悪しを決めているのは、その観客のほうだったりもするわけです。
だとしたら、その観客とともに(つまり他のメンバーとともに)つくりあげていくことが、必要不可欠だと感じているんですよね。
そして、こればかりは「場」として立ち上げていかないと、決して立ちあらわれてこないものだと思っています。
対人関係の中で生まれる対幻想を、共同幻想にしていく過程の感覚にも非常に近いです。そして、この共同幻想側の方にこそ、その場の倫理やルールは宿っている、というような感覚。
たとえば、最近のフジテレビの問題なども、観客側の倫理が大きく変化しているのにも関わらず、対幻想がそのままだったからこそ、ここまでおおごとにもなっているわけですよね。
ーーー
さて、このように世の中の倫理的な基準が大きく変化している中で、これまではあたりまえのように行われていたことが、今はドンドンと許されなくなっていきます。
また、AIエージェントのようなものも出てきて、仕事の概念もここから大きくガラッと変わっていきそうな気運となってきている。
だからこそ「これまでになかった、まったく新しいものをつくり出していこう!」という掛け声が今、至るところで語られている。
もちろん、それも大事なのだけれども、でもそれと同じぐらい、どうやって従来から存在していた、でも完全に形骸化していたがゆえにやり玉にあがってしまっているものを、またゼロからつくり出していくのかが重要な視点だなとも思います。
つまり、今日の話題のように、いかにして従来の良かった部分を復興していくかってことのほうが、よっぽど大事な視点だと感じるのです。
たとえば、時代の変化でハラスメントが完全に許されない行為になったからこそ、そこに付随していた「多少は踏み込んで相手の人生に本気のアドバイスをするという関係性」の部分だけを、切り出しながら、いかに復活させていけるのか、というように。
ーーー
そんな、古くて新しい文化を生み出していくためにはどうすればいいのか。
僕の問いは、一貫してこのあたりに存在しているなと最近強く思います。
前に進みすぎるわけでもなく、後戻りしてしまうわけでもなく、そのあいだの第三の道。
人間が人間である以上、必ず求め続けてしまうもの。言い換えると、それが存在しないと「真の共同性」自体が立ちあらわれてこないもの。
そのなかで、なるべく負の部分や毒素の部分だけを切り落として、安心安全を担保した形において提供し合うためにはどうすればいいのか、を真剣に考えたい。
ーーー
多くのエスタブリッシュメントが、エスタブリッシュメントに成り上がった結果として形式主義のに陥って失ってきてしまったもの。
いま在野からの復興みたいなものが、各方面で叫ばれているのもここにきっと理由があると思います。
大学もメディアも行政も、形式主義に陥って傷つく人々が増える中で、その本質部分だけが抜き出され転用する必要が叫ばれているのがまさにここ数年であって、同じ構造変化が各所で起きているなと僕には見える。
それが在野における復興という意味だと思っています。本質部分を見失わない形によって再興していくことの価値そのもの。
ーーー
で、そのためにこそ、参加者一人一人が自分自身で考えることができるように、形式的な空気や慣習に従うだけではなくひとりひとりが考えられるような空間としてのコミュニティを立ち上げていくことが必須だなあと。
それは与える側だけでなく、受け取る側も同時に変化する必要があって、足を踏まれた瞬間に、すぐに告発してしまうのではなくて、確認し合えること。
この不一致がなくなっていくことが、とても大事だなと思っています。
ーーー
あと、最後は完全に蛇足で、ものすごく個人的な意見ではありますが、その時にはきっとちゃんと弔う感覚が重要なんだろうなあとも思っています。
ちゃんと弔ったうえで、現代にあるべき形にアップデートをしていく。そのときに必要になるものが「敬意」なんだと思うんですよね。
それは過ぎ去っていくものに対する敬意なんかもそう。「これこそが日本のガンなのだから、ぶっ壊せ!」ではなく、タタリ神になったものへの敬意と弔いみたいなものがないと、同じことを繰り返してしまう。
きちんと弔わないと、ほんとうの意味で自分たちが欲しているあたらしい文化みたいなものは立ち上がってきてはくれないんだろうなあとも、漠然と直感的に思っています。
ーーー
これだけ音を立てながら、いろいろなものが崩壊していく最中においては「本当に大事なものってなんだっけ?」とひとりひとりが本音で考えながら問い合える場が大事になることは間違いない。
そして、消えていくものに含まれている「人間が本質的に必要としているもの」を丁寧に再興していくことができるそんな空間を淡々とつくっていきたいなあと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
![鳥井弘文](https://image.osiro.it/pass/image_uploads/12213/images/small/torii_icon.jpg)
2025/02/01 21:13