先日、こんなツイートをしてみました。

じゃあ、なぜそんなふうに考えるのか。その理由について、以下で丁寧に書いてみたいと思います。

この点、まず、生命と比べて考えてみると、きっとわかりやすい。

生命も、静止状態にその意味や価値があるのではなく、「運動」や「循環」、そこにその本質があるのだと見做されるはずです。

というか、そもそも僕らがイメージするようなスナップショットのような生命なんて、実は存在しないのかもしれない。

すべては諸行無常や諸法無我であって、常に日々刻々と移り変わっていることを想定すると、スナップショットのような静止状態は、僕らが日々「写真」や「データ」のようなものを見慣れているから抱いている幻にすぎなくて、本来は実在しないのです。

だからこそ、NFTも「保有している」というその静止状態ではなく、遺伝子(DNA)みたいに受け継がれていく過程のほうがその本質になっていくのだろうなあと僕はここで予測しているわけです。

つまり、そのデータそのものよりも、その複製の過程や運動や働き、そのブロックチェーンの履歴自体に、真の存在意義が認められるようなイメージです。データそのものを保有していることは、その結果や抜け殻に過ぎない。

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これをもう少し卑近な具体例を用いて、分かりやすく喩えてみると、皆さんご存知の運動会における「大玉おくり競争」みたいなものを想像してもらえるとわかりやすいかもしれません。

この競技の中で大切なことは、大玉を端から端までおくることではありつつも、その大玉そのものではなく、その大玉をおくるときに、人々が結束し互いにコミュニケーションを取り合いながら、ソレをおくる手立てを創意工夫していく過程のほうにあるはずです。

もちろん、必死でおくり届ける価値があると思われる「大玉」は絶対に必要であって、たぶん今は、それがNFTだということなのでしょう。

逆に言えば、その大玉はその送っている瞬間に、「非代替性」が保証されているものであれば正直何でも良くて、それが実際にどんな価値を持つのか、その使用価値や存在価値のようなものは、いくらでも後付けで構わないのかもしれない。

A地点からB地点に移動させることに躍起になり、そのB地点にある状態を目指すのだけれど、そのB地点にある静止状態自体には、何の価値も無いはずです。

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さて、このようなことを漠然と考えてくると、日本の古事記や日本書紀の中に出てくる「三種の神器」って本当にすごいなあと思わされてきます。

とてもよくできているなと素人ながら、ついつい感心してしまう。

ここで改めて説明する必要もないかもしれませんが、三種の神器とは、天皇の皇位とともに歴代の天皇に伝わる宝物のことですよね。

具体的には、「八咫鏡(やたのかがみ)」「八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)」「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」の3つで「三種の神器」です。

そして、日本人が大好きな源氏と平家の争いもまた、この三種の神器を巡る争いであった。

昨年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の中でも描かれた、日本人なら誰もが知っている「壇ノ浦の戦い」というのは、この三種の神器の一つが失われてしまった戦いでもあるわけです。

だからこそ、その戦いで勝利をおさめても三種の神器を持って帰ってくることができなかった源義経は、その責任を取らされてしまうわけですし、彼の悲運の物語がこれほどまでに長く語りつがれている理由も、なんだかよく分かるような気がする。

たぶん、このバトンリレーが行われるその過程のようなものが語り継がれるときに、そこに唯一無二性の「価値」のようなものが生まれてきて、語り継がれる「神話」となっていくのでしょうね。

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つまり玉が先か、履歴が先か、じゃないということなのでしょうね。

これらは、ニワトリと卵みたいな関係性であるということなのです。その両者の「連環」の中にだけ、人間にとって本当に大切な「何か」が生まれてくる。

そして、それはきっと「子孫繁栄」ぐらい、生命にとってはぐうの音も出ないほどの圧倒的な正しさを生み出すものなのだと感じます。

子孫繁栄も、遺伝子のバトンリレーにほかならないわけですから。

この点、年末年始に頻繁に目にする、おせち料理や神道行事を眺めていると、本当にこの国はずっと「子孫繁栄」以外には、まったく興味がなかったんだなあということがよくわかります。

とにかく、子孫繁栄にまつわるものだけが、ありとあらゆる場所に祀られていますよね。

きっと、それ以外にルソーの言う「一般意志」なんてものは存在しないということを日本人は、本当に早いタイミングから気づいていたのかもしれません。

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どうしても僕らは、何か達成するべき正義、近代合理主義の中に立ちあらわれてくる欧米式の進歩史観のようなものを、想定してしまいがち。

でも、実のところ、歴史が進めば進むほど、そんなものはないということが分り始めてしまってきているのが、まさに現代なのではないでしょうか。

じゃあ、唯一人類の中に存在しうる「一般意志」とは何なのか?

この点、いちばんわかりやすい説明が「別冊NHK100分de名著    特別授業『社会契約論』」という本の中に掲載されていたので、以下で少し引用してみたいと思います。


「一般意志」の最も重要なポイント、それは、これのみが、統治の、そして法の「正当性」の原理であるということです。ルソーの最初の問いを思い出しましょう。何が統治を正当なものとしうるか?    「わたしはこの問題は解きうると信じる」。     この問いの答えこそ、一般意志にほかならないのです。つまり一般意志は、民主主義社会が めがけ続けなければならない、政治権力や法の正当性をはかる基準原理なのです。     別のいい方をすると、わたしたちは、この一般意志の観点からしか社会の「よさ」をはかれないということです。いま、わたしたちは「よい社会」に暮らしているか?    そう問うたとき、わたしたちは、この社会はすべての人の利益になる合意をちゃんとめざしているかと考えるほか基準を持ちません。

 つまり一般意志は、絶対に実現しなければ意味のない原理ではなく、 社会の正当性をはかる基準 として意味を持つ原理なのです。


ここで語られている「社会の正当性をはかる基準として意味を持つ原理」こそが、この大玉おくりをしているときの運動であって、意味のあるバトンリレーを続けているうちにうまれてくる価値だと僕は思います。

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つまり、僕らは、何か圧倒的に価値があるものを、過去から未来へと送っていると信じて疑わないですが、実は、その順序が逆なのです。

なんでもいいから、真剣に送っているうちに、そこに立ち現れる「手立て」と「履歴」こそに、その真の価値が表象されてくるようなイメージです。

もちろんそうすると、次第にそのバトンリレーを利用して私利私欲に走る人間が増えてくるわけですが、そうすると「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり、盛者必衰の理をあらはす」 ということになるのでしょう。

でもそれさえも、この「平家物語」のように、物語として飲み込んでしまう力もある力強さは、なんとも言えないグッと来るものがある。

というか、それを淡々と繰り返し続けているのが人類であるとも言えるのかもしれないですね。

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いま、NFTによって、新たな「大玉おくり競争」、そのバトンリレーが始まろうとしている。

そのときに自分は一体どのようなスタンスでそのリレーに携わっていきたいのか。それを今一度このタイミングで、淡々と考えておきたい。

新年ゆえに、かなり抽象度の高い話を書いてしまいましたが、正月休みにおせち料理や初詣の文化なんかを眺めながら、そんなことを考えました。

いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。

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同様の内容をVoicyでもお話しています。声でも聴いてみたいよ!という方は以下のリンクから、ぜひ聴いてみてください。