今朝、こんなツイートをしてみました。

僕は日本全国を巡る中で、各地の「民藝」スポットを見てまわることが多いです。

一番のお気に入りスポットは、出雲民藝館。ちなみに「民藝」とは、柳宗悦がつくった「民衆的工芸」の意。

知人や友人の中にも、民藝や工芸品に関わる仕事をしている方は多いです。

その中で、頻繁に話題にあがるのは、日本の「工芸品は安すぎる」というお話。

もちろん「安くて誰でも買えるものが民藝なんだ」という主張もよく分りますが、そうするとやっぱり「100均は民藝なのか」という問いにもぶち当たる。

この点、海外のLVMH(ルイ・ヴィトン)や、HERMESなども、もとをたどれば単なる職人工房だったわけです。

そこにちゃんと価値を感じ、その価値をより多くの人々に届けようとする敏腕のマーケターたちが、世界的な規模でのマーケティングを丁寧に繰り返していく中で、今みんなが知っているLVMHやHERMESののようなブランドになっていったわけですよね。

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で、ここからが今日の本題なのですが、現在の国内のNFT、特にうむ子さんが作り出したLLACは、現代の「工芸品」のようなものだと思っています。

その精巧な作りや、かかっている時間や手間暇などを考えたら、もはやイラストや画像の域を完全に超えている。

質量が存在しないだけで、これは紛れもない「工芸品」だと思います。

しかも、ジェネラティブコレクションというのは、一点物のアートとは異なり、みんなが大切に扱える、ある種の「共有財産」でもあるわけですよね。

その思想をみんなで共有することができるという点が非常に民藝的だなあと、僕なんかは思うのです。

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そして、最近よく思うのは、思想を多くのひとに届けたいと思っているときほど、大切なのはその「入れ物」のほうなのだと。

それは、「媒介物(メディア)」と呼んでみてもいいかもしれません。

ある一定の広がり、その閾値を超えるために、思想を憑依させるための何かしらの媒介物が必ず必要になるはずなのです。

それを「交換」や「贈与」し合うことで、他者と円滑にその思想をコミュニケーションを通してやり取りできるようになるわけだから。

物が先だったのか、思想が先だったのか、どちらにせよ、思想や価値観を提示し、世の中に対して何か新たな問いを立てたいと願うときほど、逆説的にその思想の入れ物となる「媒介物」が必要であることは間違いないわけです。

きっと、柳宗悦たちが始めた「民藝運動」なんかも、そんな新たな思想や価値観を伝播させるために、日常の中に埋もれている「匿名性の高い工芸品」というジャンルの「物」が選ばれたんじゃないのかと思います。

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それが現代においては、NFTという「画像データ」だったということなのでしょう。

「じゃあ、このLLACに内包しているはずの『真の価値』が世界にちゃんと届いていくためには、具体的にはどうすればいいの?」と思う方もいるかもしれない。

それは、拍子抜けするほど簡単なことだと思います。

具体的には、ただ持ち続けているだけでいい。

その可能性や、思想の力を信じて、つまりはガチホする、座禅するってことなんでしょうね。

ひとりひとりがそうやって大切に保管しているだけで、その価値が次第に認められるようになっていくはずです。

そもそも、NFTの原価なんて客観的に計算できるものではないのですから。そこに表象される全員の想いや思想みたいなものが、ダイレクトに客観的な価値(≒価格)へと反映されていく。

これはちょっと過激な表現かもしれないですが「私たちをバカにするな、そんな金額で手渡すわけがないだろう」というひとりひとりの座り込みの姿勢が、その価値を決めていくのです。

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そういえば、昔読んだ本の中で「たった数秒で描けてしまう線が入っただけのこの器が、なんでこんな金額(割と高額)で売っているんだ?」という問いかけに対して、

「何十年かけて、一体いくつの作品をつくってきたと思っているんだ」と答える職人さんのお話が載っていました。

つまり、たった数秒の筆先の動きであっても、そこに職人さんの何十年、何万点という歴史がのっかっているわけですよね。

だとすれば、その価格を決めるのは、市場にそれを理解するだけの「教養」や「リテラシー」を持ち合わせているひとが、どれだけ存在しているかが非常に重要になってくるわけです。

NFTは原材料が一切不要で、原価という概念は存在せず、一瞬で描かれているように思われるポップなイラストにも見えなくはない。でも、その背後には本当に血と汗と涙の結晶が、これでもか!っていうほどに詰まっている。

そこにしっかりと想いを馳せることができるかどうか。それが僕らホルダー側にいま強く問われていることなのだと思います。

そのひとりひとりの理解が「市場の空気感」を醸成していくわけですからね。

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で、きっとこの新たなボトムアップ型の民衆運動みたいなものは、常にある種の「匿名性」が必要だったのだとも感じています。

「匿名性」という観点は、割と盲点だけれども、非常に重要な点だなあと感じています。

それは「真っ白な雪が降り積り、まだ誰も踏み入れていない草原」のような状態である必要がある。

なぜなら、その対極にあるのが、たぶん京都に存在するような「伝統」や「誇り」のような文化だと思うからです。

それはそれで、本当に嫌味抜きで大変素晴らしいものだと感じますし、僕自身も心の底から素晴らしい文化だなあと感じています。

『京都人の密かな愉しみ』というドラマが僕は大好きなのですが、あのドラマなんかは、その空気感を本当に上手に描いてくれています。

実際に京都生まれ京都育ちの方に聞いてみても、あのドラマは京都の伝統文化の雰囲気をとても上手に描き出しているそうです。

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ただ、やっぱり新たな「思想運動」において、その名前が既に通ってしまっているものであるということが、逆に邪魔をしてしまうことになる。既存の思想とバッティングするんですよね。

だからこそ、「吾輩は猫である、名前はまだない。」ぐらいがきっとちょうどいい。

柳宗悦たちがやろうとした、名もなき民衆たちのうねりから始まってくるボトムアップ型の民藝運動というのは、きっとこの匿名性に大きなカギがあったように感じています。

もちろん、鎌倉時代に親鸞がやろうとしたことも、まったく同じです。

そして、NFTの文脈において、この「匿名性」というのは、奇しくも既に多分に秘められている。うむ子さんを含むほとんどの作り手さんが、匿名のクリエイターさんですからね。

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最後に少しだけ言及しておくと、このように柳たちの思想をNFTに持ち込むことは、既存の民藝好きからすると本当に許しがたいことであって、ものすごくハレーションを起こしてしまう可能性があることも重々承知しています。

「そんな海の物とも山の物ともつかぬ、怪し気なただの金儲けの手段に対して、民藝という言葉を用いるな!」と。

でもだからこそ、良いんだろうなあとも思っています。

決して死者を冒涜することなく、しっかりとその先人たちの思想に敬意を表しながらも、自分たちが本当の意味で実現したい世界観、具体的には自分たちの今の暮らしや生活、コミュニティや共同体がより良いものになっていくことを祈りながら、そのエッセンスを大切に取り入れさせていただく。

そして、先人たちも目指したであろう、みんなが暮らしやすい世界観を本当の意味で実現していく。

それが歴史の偉人たちから学ぶことの意味だと、僕は本気で思っています。

これからも民藝的な視座から、国内のNFT市場を眺めてみたいなあと思っています。

僕が過去に書いてきた民藝に関する記事はこちら。

民藝的なひと。

「自己の認識が変わる」は、条件を揃えたら自然発生するイベント...

一流に触れる理由。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。

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